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第15回 情報化社会に奪われた次元を我々は取り戻せるのだろうか?

新納 翔(にいろ・しょう)

2016.10.04

日中の信号待ち、見知らぬ人が横に並んで青いランプがつくのをじっと待っている。この信号待ちの間に一体何台の車がこの環七を通り過ぎるのだろうか。反対側にも同じように信号待ちをしている見知らぬ人がいる。高校生くらいの時から私は、長く感じるその待ち時間に考え事をする癖がある。最近では何か思いつくとiPhoneに端的に打ち込んでおく。見返すとこの連載用のメモにこんなワードが記されていた。

「情報 時間軸 希薄」

 

我々は何次元の世界に生きているのだろうか。別段物理的な質問をしようというわけではない。素粒子物理の世界では11次元という説が最近の主流であるようだが、そんなことは普通に生活していて実感できる話しでもない。宇宙物理学を学んでいた時もテキストに出てくる月と、夜実家のマンションから見える月がどうにも一致しなかった。いずれにせよ空間に関する「縦、横、奥行き」の3次元と過去から未来への時間の流れを足して4次元としている。

情報化社会という言葉さえ陳腐になったインターネット網の中で生きている我々は、本当に多くの情報を得られるようになったのであろうか。いや、ちょっと言いたいことと違う。知りたい事をGoogleで検索すればすぐにそれに関する情報は手に入る。ただ、ネットの進化に反比例して情報の「質」が落ちているように思うのだ。何をいまさらと言われそうなことだが、つい先日Facebookのタイムラインにある広告記事が流れてきた。それは中国のちょっとおかしな新製品のものなのだけど、実は2年ほどまえに私がウェブメディアにライターとして記事を書いたものなのだ。

その広告主が私の記事を流用したかはさておき、ここで格差が生まれていることが問題なのだ。その情報の鮮度である。私からすれば随分まえにそんなモノもあったなぁという程度なのだが、コメント欄を見てみるとあたかも最近発明されたもののように驚嘆する内容が多数書きこまれているのである。

情報化社会において多くの人にはその情報を初めて知った時点、それが「時間軸において0地点」になる。誰かがTwitterでSOS信号を発信しそれがシェアされていったとしよう。各々がタイムラインにそのシェアされたメッセージを見る、ソースをしっかりと調べればいいが、事が急迫しているとうっかりそれを見た時点を「0時点」と捉えかねない。先の例でいえば、私のタイムラインにそのSOSメッセージが流れてくるのは2年後なのだ。もうSOS信号を発信した人はこの世にいるか定かではない。

こうして格差が格差を生み、情報はその上辺だけの文字列にだけしか意味をなさなくなる。もはやそれは記号でしかない。そうしてインターネットの世界をめぐる巡って希薄化された情報が流れてくる。なんだかかつて黄金の国ジパングが東方にあると伝聞されていた中世の社会のようではないか。これだけ便利になったといわれる情報化社会の本質は、マルコポーロの時代となんら進化していないのかもしれない。

電車の中、歩きスマホ、皆その場所から離れインターネットの世界の中にいる。ただ、そこにある情報は時間軸というものを失っている。少数の人はソースを調べ時間軸を取り戻す人もいるだろうが、大多数は記号化したフェイクの情報で構築された世界を彷徨っている。もう、過去も未来も今ですらなくなった世界を。

VR技術がARと融合し、人工知能の発達が目覚ましい今、そのおぞましい世界と現実との境が無くなる日が来るように思えて仕方ないのだ。その余波が写真の方にも確実に来ている。

そして信号が青になる。
私もしっかり現実に戻らなければ。

 

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新納 翔(にいろ・しょう)
新納 翔(にいろ・しょう) プロフィール

1982年横浜生まれ。 麻布学園卒、早稲田大学理工学部にて宇宙物理学専攻するも奈良原一高氏の作品に衝撃を受け、5年次中退、そのまま写真の道を志す。2009年より中藤毅彦氏が代表をつとめる新宿四ツ谷の自主ギャラリー「ニエプス」でメンバーとして2年間活動。以後、川崎市市民ミュージアムで講師を務めるなどしながら、消えゆく都市をテーマに東京を拠点として撮影を続け現在に至る。新潮社にて写真都市論の連載「東京デストロイ・マッピング」を持つなど、執筆活動も精力的に行なっている。写真集『PEELING CITY』を2017年ふげん社より刊行。