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第8回 ある自伝の余白に

吉田 隼人(よしだ・はやと)

2016.08.24

いとしをとめらいまいづこ、
をとめらはかのさなかなり。
かつてなきほどさいはひに
うましきやどにすまひゐむ。
.
あめのつかひのかたへなる、
まさをきそらのそこひにて、
をとめらうたふほめうたは
たふときもののははがため。
.
あはれましろきはなよめよ。
はなとにほへるをとめごよ。
なまめきあひてすてられて、
いたみにいろもうつろひぬ。
.
ふかみにありてとことはの
ゑみぞかざりしながまなこ……。
よのともしびはきえはてつ、
あまつあかりをまたもともせよ。――ネルヴァル「レ・シダリーズ」

 

木田 元「ハイデガーの思想」 (岩波新書)

 

哲学書を文学書のように、文学書を哲学書のように読みたいと思っているうちにどっちつかずの不安定な立場に陥ってしまった、と書けば自分もまた、けものと鳥と両方にいい顔をした末にどちらからも見限られてしまったあの寓話のコウモリと同族であったかと苦笑するほかないのだけれど、そのころはまだ可憐にも哲学への志――といって高級すぎるなら、色気――を捨てていなかったのだろう。おぼつかないフランス語で短い論文など読みかじる一方で、フランス現代思想をやるにはやはりどうしてもハイデガーを(高校時代に挫折したあのハイデガーを!)押さえておかねばなるまいと、新書版の『ハイデガーの思想』や文庫に入った『ハイデガー』『ハイデガー「存在と時間」の構築』といった木田元の著作をひと夏かけて読み漁ってみたら、同じ著者が同じ題材で書いているのだから仕方ないがどれも同じような論旨で、二冊目、三冊目と進むごとに復習じみてきた。それでもハイデガー論ならまだ復習する意味もあろうが、もう少し軽い本、そのころ精力的に刊行されていた同じ木田元のエッセイ類は何冊も読んでいると同じ思い出話ばかり何度も出てくるので少し飽きてくる。海軍兵学校の学生として終戦を迎え、満州に抑留された父に代わって病身の母親と兄弟の生活をひとりで支えるべく、闇屋としてときにヤクザまがい、詐欺まがいの仕事にも手を染めながら文学書を濫読、やがて闇の仕事でもうけた金を元手に鶴岡の農林専門学校(いまの山形大学農学部)を経て東北大哲学科に進んでハイデガーを読むに到る“木田元物語”は活劇調で痛快ではあるけれども、何度も同じような文章を読めばさすがに食傷するというものだ。宮台真司のナンパ自慢や宮崎哲弥の不良自慢、あるいは四方田犬彦の『ハイスクール1968』ほどではないにしろ、この種の「俺も昔はワルかった」式の武勇伝にはどこか抵抗を感じてしまう。同じ哲学科でも東大をドロップアウトして、進駐軍の下働きやストリップ劇場の助手を振り出しについにはテキヤとして全国をめぐり、本物のヤクザの末端に連なってしまう田中小実昌のほうが、恥じらいをこめて淡々と語るぶん、かえって凄味がある。

 

木田 元「闇屋になりそこねた哲学者」 (ちくま文庫)

 

のっけから斜に構えた感想になってしまったけれど、そうはいいつつ、ぼくは今でも手持ちぶさたになると木田元の自伝もののうち『闇屋になりそこねた哲学者』を、それこそ何度目どころではない、何十度目だか何百度目だかわからないが、とにかくやたらに読み返している。それはべつに武勇伝を読みたいからでもなければ、四年間でドイツ語・古代ギリシャ語・ラテン語・フランス語を習得した学習法をまねるつもりでもなく、回想のなかに生き生きとした姿で登場する東北大周辺の哲学者たちの群像に惹かれるからだ。天才的な語学力をもちながらまとまった著書を残さなかった『学問の曲がり角』の河野与一、ドイツ語をとても正確に読むが日本語はひどいズーズー弁だった高橋里美(のちに東北大学長)、その愛弟子で木田元を可愛がってくれた『人間存在論』の三宅剛一、逆にとことんウマが合わなかった真方敬道(ベルクソン『創造的進化』の訳者)、エッセイ風の文章で問題の核心に切り込む独自な論文の書き手だった斎藤忍随、とても頭が切れるがひどい皮肉屋でたくさんの同僚を泣かせた細谷貞雄(ハイデガー『存在と時間』『ニーチェ』の訳者)、近所のおやじさんやおかみさんまで店を閉めて教室につめかけたというほど講義がおもしろかった『哲学初歩』の斎藤信治など、それぞれに魅力的で、ぼくは『闇屋になりそこねた哲学者』の文庫本をいわばガイド役にして、図書館や古本屋をめぐって彼らの著書や訳書を読むことになった。日本の哲学というとまず京大が挙がり、そちらには京都学派最後の生き残りだった下村寅太郎の愛弟子・竹田篤司の『物語「京都学派」』という好著があるけれど、そうした本を読んでみると実は京都学派と東北大哲学科とのあいだにはかなり密な人材の交流があったことがうかがえる。ぼくにとって木田元の自伝はその武勇伝よりも、一種の「京都学派外史」とも呼ぶべき側面のゆえに愛読書たりえているのである。

 

その『闇屋になりそこねた哲学者』に、京都学派とは関係ないが印象ぶかい人物として若くして助教授をつとめていた松本彦良という哲学者が出てくる。松本は戦後間もなくアメリカの大学に留学していた「とてもスマートでかっこうのよい人」で、留学中に習得したらしいフランス語でサルトルの読書会などを主宰していたが、いつもどこかに孤独の影がつきまとう、こういってはなんだけれど、ちょっと幸の薄い感じの人だったようだ。

 

「松本さんはぼくの面倒はよくみてくれたのですが、対人関係では構えてしまって、あまり人とうちとけないようなところがありました。寂しがり屋だったけれど、自分からは人に働きかけることができなかったのです。ところが、ぼくは家が近いせいもあって、そんなことは気にせずに訪ねてゆくものですから、松本さんもだんだん気が楽になり、時どきは『散歩しないか』とぼくの下宿に誘いにきたりするようになり、広瀬川のほとりをいっしょに散歩したりしました。突然脳腫瘍が破裂して、三十九歳という若さで亡くなりました。気の毒な人でした。」

 

彼のこうした姿の背景には、同じく東北大の教授だった父親にふりかかった不幸な事件のために「心に深い傷を残していた」事情があると木田元は書いている。

 

「お父さんの松本彦七郎さんは東北大学の古生物学の先生でしたが、松島湾あたりで出てきた人骨を二百五十万年前くらいのものだと発表して、大学を辞めたそうです。その頃はまだ人類の発生は五十万年前だというのが通説でしたから、頭がおかしいのではないかといわれて、当時鳩山文相のもとでできた文官身分令というのが適用されて辞めさせられたのです。この文官身分令というのは、大学教授を辞めさせることのできる法律らしく、適用第二号が滝川事件(一九三三年)の京大の滝川幸辰教授です。その第一号が松本彦七郎さんだったと聞きました。(…)いつかぼくに、そのことをしみじみと話してくれたことがありました。」

 

戦前の学問弾圧事件として有名な滝川事件に対して、ここで木田元は松本彦七郎の一件をやや軽いタッチで書いているけれど、あれこれ調べてみると実情はもっと複雑なものであったらしい。生物学者として出発した松本彦七郎は東北大在職中、日本の旧石器時代や縄文土器などを人類学的な見地から研究して先駆的な論文を発表していたのだが、それが問題視されたのは単に通説に反するからというのではなく、神話を正統な古代史として教える当時の「皇国史観」に抵触するからという側面のほうが強かった。そこに学内の権力争いなども絡んだため滝川事件のように表立って思想弾圧というかたちをとらず、一種の精神病による妄想の所産と見做されて「文官分限令」――木田の「文官身分令」というのは記憶違いらしい――によって休職となり、のちに退職にまで追い込まれたというのが実情に近いようだ。彼を「頭がおかしい」と診断した医学部のMという教授も医史学の論文によるといろいろと問題を含んだ人物だったようで、戦後ある殺人事件の容疑者をずさんな精神鑑定により真犯人と断定したのだが、のちにそれが冤罪であることがわかったという問題を起こしてもいる。このあたりの詳細な事情については彦七郎の三男である松本子良という人(つまり松本彦良の弟にあたる)が父親の名誉回復のためにまとめた『理性と狂気の狭間で』という私家版の本がある。

 

ぼくが最近になってこの松本彦七郎・彦良という不幸な学者父子のことを多少なりとも知る発端となったのは、戦中から戦後にかけて存在した「大学院特別研究生」という制度についてごく個人的な興味から――変な趣味だが、ぼくは教育制度の歴史について調べるのが大好きなのである――いくつかの論文を読んだことだった。この制度についても『闇屋になりそこねた哲学者』に記述がある。

 

「特別研究生というのは助手の代わりをさせるために戦争中に文部省がつくった制度で、助手の給料十二カ月分にボーナスを足した額を十二等分した額の奨学金を毎月くれます。当時としてはべらぼうな額です。前期三年、後期二年の五年間、いようと思えばいられます。当然、狭き門で、東北大学文学部の場合、学部全体でその枠は前期五人、後期二人でした。教授会で各学科の先生が弟子のために奮闘して獲得してきてくれるのです。」

 

戦後になってこの制度の恩恵を受けた木田元の「助手の代わりをさせるため」といういささか楽観的な認識とは異なって、この制度の実情はもう少し残酷なものだった。昭和18年(1943年)、戦争後期にできたこの特別研究生制度は、身も蓋もない言い方をしてしまえば、戦争の役に立つ研究をしている一部の優秀な学生に限って徴兵を免除し、生活を保証するという意味合いをもっていた。対象となるのは東京・京都・東北・九州・名古屋・大阪の七つの帝国大学と、東京工大・東京商大(のちの一橋大学)・東京文理大(東京教育大を経て筑波大学)の学生のみ。その後、猛烈に反発した私立大学の側から早稲田と慶応も加えられるが、当時ほかに京城(ソウル)と台北にあった二つの帝国大学は除外された。審議の席では、植民地の人間(つまり朝鮮人や台湾人)を制度の対象にするわけにはいかないという差別的な意見がまかり通っ

 

そして戦争となれば圧倒的に理科系が優遇される。制度ができて二年目の昭和19年(1944年)以降は戦況の悪化もあって、文系の研究者は対象から外された。木田元のように文系がふたたび特別研究生制度の対象となるのは戦後になってからである。そうした理科系優遇のなかで、およそ実学とは縁遠いとみなされがちな文学部から特別研究生に選ばれたなかには、たとえば美学や倫理学で有名な東大の今道友信などもいた(中村光夫『憂しと見し世』)ようだが、学徒出陣で戦死していった級友たちへの罪悪感から特別研究生としての経歴を語らなかった者も多く、詳細なことは今もよくわかっていない。

 

ところがこの特別研究生制度について取り上げた数少ない研究書、吉葉恭行『戦時下の帝国大学における研究体制の形成過程』が東北大の事例を扱っていた。そこに収載された当時の資料のなかに、昭和18年に文系から採用された数少ない特別研究生のひとりとして「松本彦良」の名前があったのである。題目は「近世科学思想史トソノ哲学的反省」、指導教官はヘーゲル研究者の小山鞆繪。選考のため提出された研究事項解説書には「西洋近代精神ノ哲学的批判ヲ通ジテ、日本固有ノ民族性格ノ下ニ於ケル独自ナル日本的科学方法ノ樹立ニ資セントスル」とか、「英、米、仏ノ進化論的実証主義、又ハユダヤ的色彩ノ濃厚ナル機械論的唯物論等」は「不健全ナル歴史的事象」だから「カカル敵性思想ニ根本的批判ヲ加ヘ」ねばならないとか、ずいぶん物騒なことが書き連ねてある。いつの時代も研究予算や研究職のポストを獲得するためには、多かれ少なかれ時流におもねった文面で書類を書かねばならない。まして戦時下、文系の大学院生などいつ兵隊に取られてもおかしくない。他の文系採用者のなかにはもっと露骨な「戦力昂揚ノ心理学的方法」とか「日本語ヲ大東亜ノ国際語タラシメントスル試ミトソノ理論」とかいった題目を掲げているものもある。松本彦良もまた命をつなぐため、心ならずもこの種の「時局的文章」を書いたのだろう。哲学科から特別研究生への採用を勝ち取るためには、理系優遇の時代に合わせて研究題目を科学哲学に変え、民族主義と排外主義に掉さした研究計画を書かねばなならなかったわけである。しかも彼の場合は父親が、ともすれば「皇国史観」に反するともとられかねない研究で大学を逐われた経緯がある。そうした前歴をもつ学者の子息である以上、少しでも文句のつきそうなことを書けば身の危険に晒されないとも限らない。彼がどんな心理的重圧のもとでこの書類を作成したか、想像するだに胸が痛む。

 

木田元という戦争に翻弄された哲学者の自伝、その余白にぼくは、ある意味で彼よりも遥かに陰惨なかたちで「大日本帝国」に翻弄された松本彦七郎・彦良という学者父子のことを書き加えておきたかったのだ。いつかまた、この父子のような悲劇に見舞われる学問の徒が出てこないとも限らないから――。

 

吉田 隼人(よしだ・はやと)
吉田 隼人(よしだ・はやと) プロフィール

1989年4月25日、福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)に生まれる。
町立の小中学校、県立福島高校を経て、2012年3月に早稲田大学文化構想学部(表象・メディア論系)卒業。

2014年3月、早稲田大学大学院文学研究科(フランス語フランス文学コース)修士課程を修了。修士論文「ジョルジュ・バタイユにおけるテクストの演劇的=パロディ的位相」。現在は博士後期課程に在学。

中学時代より独学で作歌を始め、2006年に福島県文学賞(青少年・短歌の部/俳句の部)、2007年に全国高校文芸コンクール優秀賞(短歌の部)をそれぞれ受賞。

2008年、大学進学と同時に早稲田短歌会に入会。「早稲田短歌」「率」などに作品や評論を発表。

2012年、「砂糖と亡霊」50首で第58回角川短歌賞候補。

2013年に「忘却のための試論」50首で第59回角川短歌賞を受賞。早稲田短歌会ほかを経て、現在無所属。
「現代詩手帖」2014年1月号から2015年12月号まで短歌時評を連載。「コミュニケーションギャラリー ふげん社」ホームページに2014年11月からエッセイ「書物への旅」を連載。

2015年12月、歌集「忘却のための試論」を書肆侃々房より刊行。2016年、同著で3月に2015年度小野梓記念芸術賞受賞、4月に第60回現代歌人協会賞を受賞。