第6回 ブライヤーは何の花?――方向音痴の〈知〉的散策 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2015.05.11 この連休中、体調を崩してしまってどこへも出かけられなかった。もともと貧乏なうえに出不精なので遠出する予定はなかったのだが、消化器に炎症を起こしてしまい毎日のように嘔吐が止まらない有様で、いよいよ家でじっと寝ているしかない。漱石門下で幻想的な小説と軽妙な随筆を多く残した内田百閒は「なまけるにも体力が要る」という名言を残したけれど、病気で体力の落ちているときはじっと寝ているだけでも実際なかなかしんどいものだ。何か気を紛らわすような趣味でもあればいいのだが、本を読む以外にこれといった楽しみもないので、枕辺に転がっている本の山から、どこから読み始めてどこで読むのを中断してもさして支障のないようなものを選んで読むことにした。というのも、たびたび胃液が喉元に逆流してきて、そのたびにトイレへ這いつくばって行って嘔吐するのを繰り返していたので、話の筋を追うのに集中力の要るような長編小説や、同じく緻密な論理を辿らなくては内容が頭に入ってこないような哲学書などは、いちいち嘔吐のために中断していてはとても読めないのである。 そこで手に取ったのが、いつか古本屋の一冊百円の籠から買ってきた古い角川文庫版の原口統三『二十歳のエチュード』(現在は『定本 二十歳のエチュード』がちくま文庫に入っているが恐らく絶版。読むだけなら青空文庫にアップロードされているので無料で接することができる)だった。これは終戦の翌年、ランボーに心酔して詩人として将来を嘱望されながらも、汚れた生存を忌避し、純粋を追い求めた末に自殺した旧制一高――いまの東大教養学部――の学生、原口統三の遺したアフォリズム形式の遺稿集である。その断章形式がそのときの自分にはちょうどよい分量のような気がしていたのだが、いま思えば体調を崩しているときの読書にはいささか毒の濃すぎる、青春期特有の潔癖さと傲慢さが結晶したような本であった。ランボー、ヴァレリー、ニーチェなど心酔の対象だったであろう海外の文豪たちにも容赦ない批判の刃がつきつけられており、なるほど戦前の超エリートたるところの旧制高校で、さらに詩人として自意識を肥大化させていた秀才の自恃はかのごとく強いものであったかと思わせられるのだが、そんな原口が遺稿の中で素直な尊敬の念を吐露している唯一といってもいい人物がいる。 「その後で、僕は何か身のまわりに足りない物があるような気がして、押えきれない焦燥に駈られた。机の上に古い向陵時報があり、その上にふと、僕は「清岡卓行」という名前を見つけた。そこでわかったのだ。 ――パイプだ! と僕は気がついた。あのマドロス・パイプは橋本にやってしまっていたのだ。 僕は悲しくなりながら、清岡卓行とマドロス・パイプとをこういう推理で結びつけてみた。あたかもポーのデュパンがしたように。――僕のマドロス・パイプはブライヤァだ。ところでブライヤァとは薔薇の根であり、薔薇の根で作ったパイプは上等だと、始めて教えてくれたのは清岡さんだったわけだ、と。 Nonsens ! パイプ。いかにも清岡さんの風貌に似合ったものであった。」(『二十歳のエチュード』) 清岡卓行。詩人として、批評家として、仏文学者として、そして『アカシヤの大連』(講談社文芸文庫)で芥川賞を受けた小説家として知られ、まだ没後十年も経たないこの人物は、終戦直後に逗子の海で自殺した原口統三の、大連一中――中国の大連は日露戦争以後、日本の植民地であった――から旧制一高まで通じての先輩であり、彼のほとんど無条件の尊敬を得ていた。むしろ『二十歳のエチュード』刊行当時、清岡はいまだ終戦後の混乱で大陸にいたため所在不明、引き揚げ後も家族の生活を支えるため文学活動はおろか、籍のあった東大仏文科の授業にもほとんど出席せず、プロ野球を運営する日本野球連盟――のちセ・パ両リーグへの分裂に際して清岡はセ・リーグに所属する――の職員として働いていたので、そのころの読者にとって清岡卓行とは作家でも詩人でもなく何よりもまず「原口統三の先輩」として神話的な人物であったのである。 清岡にはのちに原口について綴った小説ともエッセイともつかない著書『海の瞳』(文春文庫)があり、そこには「もし自分が東京にいて原口統三にときどき会うことができていたら、決して死なせなかったのに」とか「縄で椅子に縛り付けてでも、生きるようにすすめたのに」とかいった記述が見られるという点でも興味深いのだけれども、僕がここで書きたいのはこれまで幾度となく語られてきたこの二つの詩魂の伝説的な交流についてではない。ついでに付け加えておけば、ここで原口からマドロス・パイプを貰った「橋本」すなわち橋本一明についても、彼が原口の無二の親友として遺稿を託され、『二十歳のエチュード』を出版にこぎつけた旧制一高の学生であったことや、その後、原口の遺志を継ぐようにしてランボーを中心としたフランス文学の研究者として精力的に活動しながらも、こちらは病のために若くして逝き、その没後に『純粋精神の系譜』(河出書房新社)と『アルチュール・ランボー』(小沢書店)の二冊が刊行されたことなど、語ろうと思えばいくらでも語れるのだが、それもまた本稿の主題ではない。僕が気にしているのは、「ブライヤァのパイプ」を渡した原口統三でも受け取った橋本一明でもなく、パイプそのものなのである。 原口統三は清岡卓行から「ブライヤァとは薔薇の根であり、薔薇の根で作ったパイプは上等だ」と教わったという。この一節は妙に印象に残るらしく、のちに『二十歳のエチュード』出版を皮切りに詩集や詩誌の発行に力を尽くす出版社「書肆ユリイカ」を立ち上げ、清岡卓行の第一詩集『氷った焔』をも刊行しながらやはり若くして没した――どうも今回の文章には夭折者が多い気がする――出版人・伊達得夫の遺稿集『詩人たち ユリイカ抄』(平凡社ライブラリー)の冒頭に収められた「パイプはブライヤア」という短いエッセイでも効果的に使われている。戦時下にあって、当時の日本で最高のエリート養成機関であった旧制一高で「敵性外国語」のフランス語を学び、ランボーに心酔する二人の詩人が交わした会話としてこの一挿話はなるほどそれ自体が既に一篇の詩であるかのように完成されている。けれども、いい加減に胃液を吐き過ぎてその酸で食道が傷付き、吐瀉物に赤黒い血液が混じるようになった頃になって手に取った別の本に、以下のような記述があるのを見付けたことで、僕の中で「ブライヤァのパイプ」をめぐる挿話の印象は大きく変化することになる。 「ブリュイエルは英語ではブライアーbrierという。ところが、英和辞典を引くと、必ず同じ綴りの語が二つ並んでいる。一つはいばら、もう一つはこのヒースなんだ。フランスのヒースは、特にコルシカ産のが良質で、その根塊からパイプを作る。俗にブライヤーのパイプという奴だな。この頃は間違える人もいなくなったらしいが、昔は辞書を引いて、最初に出てくる「のいばら」に飛びついて“ブライヤーのパイプは「のいばら」から作る”なんて、その道の「通」と称する人までが随筆に書いているのを見て、知ったかぶりもほどほどにしてくれと思ったものだ。」(林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』平凡社ライブラリー) この一節に出くわして、僕はすっかり驚いてしまった。ついさっきまで読んでいた『二十歳のエチュード』では原口統三がいくぶん得意げに「ブライヤァのパイプは薔薇の根から作る」なんて聞きかじりの雑学を披露していたのが、薔薇どころではない、薔薇と「いばら」だって別物だろうに、ブライヤーというのはさらにそれとも別物、俗に「ヒース」と呼ばれている植物の根から作るのだという。清岡卓行が間違った知識を教えたのか、それとも原口統三が勘違いして書き残したまま死んでしまったのか、どちらにせよ若き日の二人の詩人が交わした一篇の詩のような会話は、実のところとんだ見当違いだったわけである。若さゆえの気取り、衒学と思えば微笑ましくもあるのかも知れないが、僕自身まだまだその気取りや衒学を脱しきれないところで呼吸しているわけで、いささか幻滅するとともに、自分の知ったかぶりを指摘されたような気がして赤面してしまった。 ついでに付け加えておけば、本物のブライヤーであるところの俗名「ヒース」は学名や和名では「エリカ」と呼ばれ、園芸家にとってはごく馴染み深い植物らしい(ヒースheathというのは元々「荒野」という意味だったのが、そのうち痩せた土地に咲く植物の俗名に転じたようだ)。これを語っているのは三木清の親友にして、京都学派が生んだ哲学者たちの中でも極め付きの異端、英独仏伊西露さまざまな外国語に通じ、膨大な知識を蓄えながらも――あるいはそれゆえにこそ――大著をものすることなくこの世を去った知の巨人・林達夫である。盟友の三木清はマルクス主義に接近したために治安維持法にひっかかって思想犯として投獄され、戦後すぐ劣悪な環境の獄中で病死したのに対して、林は戦時中ほとんど思想的な文章を発表せず、もっぱら庭作りに没頭し、趣味の園芸についてのエッセイをいくつか公にしたのみであったのだが、そこにそれと感付かれぬように当時の狂気じみた時勢に対する反感と批判を込めていた。各分野にまたがる林の博識ぶりはつとに知られるところだが、こと園芸に関してはある意味で趣味の域を超えた、軍国主義に対するひそやかなレジスタンス活動ですらあったわけで、筋金入りと言っていい。念のため僕もあれこれ調べてみたが、やはりパイプの原料となるブライヤーは決して薔薇でも「のいばら」でもなく、ヒースすなわちエリカの根であることが確認できた。 何だかやたらと夭折者の名前ばかり出てくる今回のコラムでは珍しく、林達夫はまず長生きした部類に入るのだが、「書かない学者」として有名だっただけにその著作は少なく、若くして不遇のうちに死んだ三木清に膨大な全集があるのに比べ、『林達夫著作集』(平凡社)は全六巻という慎ましさである。貧乏な僕でさえあちこちの古本屋で端本を一冊ずつ集めることで、さしたる予算をかけずに全巻揃えることができたぐらいだ。基本的にこの人の著作は短いエッセイ風のものばかりだから、主要な文章は『林達夫評論集』(岩波文庫)や『林達夫芸術論集』(講談社文芸文庫)で今でも比較的容易に手に取ることができるし、かつて中公文庫から出ていた四冊のエッセイ集『歴史の暮方』『共産主義的人間』『思想の運命』『文藝復興』でほとんどの文章を読むことができるので、四畳半のアパート住まいの僕などはこれらの文庫本で済ませて(最初に林達夫の文章に接して彼のファンになったのが古本市で安く手に入れた文庫本だったから思い入れもある)、かさばる著作集は実家に置いている。 ともあれその『著作集』の付録として付けた短い対談をきっかけに生まれたのがこの『思想のドラマトゥルギー』という、豊かな〈知〉の結晶とも言うべき対談集である。僕は「学問の楽しさ」を忘れたくないときはこの本を手放さないよう心掛けるようにしていて、震災後の福島と東京を行き来して、大学院の入試とプレハブの仮設校舎での教育実習を同時にこなさなければならなかった二〇一一年の秋にはこの小さな対談集を肌身離さず持ち歩いていたし、またこの中で林達夫が紹介しているのに興味を持って読んだ本は一冊や二冊では済まない。つい最近もサルトルのジュネ論『聖ジュネ』(平井啓之訳、上下巻、新潮文庫)の邦訳を批判するついでに林が推奨している、スイスの仏文学者ジャン・ルーセの『内部と外部』(ジョゼ・コルティ書店)という一七世紀フランス演劇に関する論文集を、これはいまだに邦訳がないのでフランス語の原書で読んだ。 稀代の雑学者・林達夫が、ここでは同じく京都大学出身の哲学者である久野収――いわゆる「市民運動」の旗振り役であったことから最近は人気がないが――という絶好の聞き手を得て、ともすれば「書かない学者」のまま公にされずに終わったかも知れないその多岐にわたる知識を、惜しげもなく、京都学派の哲学者たちや様々な文学者たちの、ちょっとゴシップ的な興味をそそるような思い出話をふんだんに交えながら楽しげに語っている。文章だけ読んでいると林達夫というのは厳しい大インテリで、実際にずさんな翻訳やいい加減な知識に基づいて書かれた文章などがあると徹底的に(このブライヤーに関する箇所などかなり優しい部類である)その誤訳や事実誤認をやっつけるという印象ばかりが先行しがちでもあるのだけど、久野収が打てば響くように絶好の相槌を入れてくれるせいもあるのだろう、この『思想のドラマトゥルギー』は読んでいて息苦しさはない。それどころか気分が華やいでくるぐらいで、ニーチェが『悦ばしき智慧』と呼んだのはこういう学問の在り方のことだったのかと思い知らせてくれる。 たとえばブライヤーのくだりはまずエミリ・ブロンテの『嵐が丘』に出てくる「ヒース」とは何ぞや(そういえばこの小説の重要人物の名前も「ヒースクリフ」であった)、という話から始まって、ただ英文学だけを勉強していたのではわからないことだけれど、それが実は「エリカ」という名前で日本でも園芸をやる人にはポピュラーな植物なのだと説きはじめられる。そこに久野収が「西田佐知子に『エリカの花散るとき』という歌があって……」と、話が高踏的になりすぎないよう、適度に柔らかい話題で応じる。西田佐知子といっても僕の世代はもちろんリアルタイムでは知らないわけだが、今から半世紀以上前に人気のあった女性歌手である。たいへんな美人で「さっちん」の愛称で親しまれていたが、のちに関口宏と結婚して引退してしまった。ちなみに久野収は西田佐知子のファンらしく、他にも京大教授の桑原武夫――短歌や俳句をやる人には戦後に発表した『第二芸術論』で悪名高い仏文学者である――もファンで、自分の退官記念パーティに呼んで歌ってもらおうとしたというエピソードが別なところでも語られている。 その西田佐知子の代表的なヒット曲と言えば、「アカシアの雨にうたれてこのまま死んでしまいたい……」という歌いだしが、安保闘争の敗北という時代の心情とマッチして印象的な『アカシアの雨がやむとき』にまず指を屈しなければならないだろうが、僕はつねづねこのヒット曲の残響が清岡卓行の芥川賞受賞作『アカシヤの大連』に聞こえはしないだろうかと考えてきた。西田佐知子の歌が一九六〇年、清岡卓行の小説が一九六九年(芥川賞受賞はその翌年)だから十年近く間があいているわけだが、その背景こそ違えど生と死のあいだで揺れ動く心を甘美に綴っているという点で、共通項があると言えなくもない。そういえば、それほどヒットはしなかったけれど、清岡の小説からタイトルを借りた『アカシヤの大連』という歌謡曲もあった(歌ったのは小柳ルミ子)。 ……といった具合に、原口統三『二十歳のエチュード』に出てくる清岡卓行とブライヤーのパイプの話から始まった僕の気ままな読書は、そのブライヤーとは何かという些細な疑問をめぐって『思想のドラマトゥルギー』にぶつかることで林達夫の切り拓いた広大な〈知〉の沃野にまで足を伸ばすことになったわけだが、西田佐知子という思わぬ道を通って再び清岡卓行のところまで戻ってくることになった。ぶらっと近所に散歩に出かけたつもりが思わぬ遠出をしてしまい、すっかり見知らぬ土地に辿りついてしまい、これはもう徒歩では帰れないかと思いきや、不意に見慣れた風景が目に入ってきて、ああ、ここはあんなところにつながっていたのかと、予期せぬ拾い物をしたような、少し得したような気分で元の場所に帰り着いた、というような気分である。病気のために連休を家から一歩も出ずに過ごしていたはずが、その無聊を慰めるために手に取った本がきっかけとなって次々に別な本がつながっていくことで広大な〈知〉の世界を散策することとなり、ちょっとした旅行の後にも似た心地よい疲労と充実とを感じることになった。 四方田犬彦『先生とわたし』(新潮文庫)をきっかけに再評価の機運が高まり、ここ数年で『椿説泰西浪漫派文学談義』(平凡社ライブラリー)や『みみずく古本市』(ちくま文庫)など著書が復刊されている英文学者・由良君美――この人も林達夫の愛読者で、彼が没したとき『現代思想』誌にちょっと大仰なほどの追悼文を寄せている――は、「読書遍歴」というエッセイ(講談社学術文庫『言語文化のフロンティア』およびちくま文庫『みみずく偏書記』に所収)で、学者の読書について二つの型を示している。一方は、何か一つのテーマを決めたらそれ以外には目もくれず、目的(論文執筆など)に向かってひたすら関連文献を読破していくというタイプ。もう一方は、雑然と興味の赴くままに本を読み漁っているうちに、ふいにそこで得た雑多な知識が関連付けて見えてきて、そこで初めて考えを文章にでもまとめてみるか、ということになるタイプ。自ら「雑書主義者」をもって任じる由良はもちろん後者で、前者のような姿勢から生まれた成果にはほとんど見るべきものがないとさえ言っている。林達夫も後者の部類だろう。論文や大著というかたちで実績を積み重ねられる前者の方が出世はするのだろうし、実際、林達夫も由良君美も主著というべき重厚な研究書は遂に書かない――あるいは知識が豊富すぎて「書けない」――まま、短いエッセイや書評ばかりを遺して死んでしまった。しかし〈知〉の楽しみということで言えば、〈知〉の散策者とでも呼ぶべき後者のほうが圧倒的にその楽しみを享受し、読書の快楽、知ることの快楽に存分に身を浸しているといえる。 僕も論文を書いたり、ゼミや学会で発表をしたりするときはやはり関連する研究書やら参考文献やらを図書館でかき集め、目的地に向かってまっしぐらに突き進むような読書をするわけだけれど、基本的には(林達夫や由良君美のような碩学にはとうてい及ばないけれども)興味の赴くまま本から本へと範囲を広げていって、雑多な知識が思わぬところで――今回の「ブライヤーのパイプ」のように――交錯するのを楽しむ部類の、気儘な散歩のような読書のほうが好きだ。実際に論文を書く段階になってからは前者の読書も有用ではあるけれど、その前にそもそも雑多な読書によるごちゃごちゃした知識の膨大な蓄積がなければ、なかなか論文の出発点となるアイディアさえ思い付かないものだ。 旅には二通りの行き方がある。同じ目的地に向かうにしても、一心不乱に最短距離を通り、途中の道程を単に「移動」としか見做さない行き方と、寄り道に寄り道を重ね、時には迷子になることさえ厭わず、その過程を楽しんでしまう「散歩」ないし「散策」に近い行き方。テレビに喩えると、前者が美味や絶景、温泉などを映すことに主眼を置いた普通の旅番組だとすれば、後者は旅の過程で起こる思わぬアクシデントを面白がる「水曜どうでしょう」や「ローカル路線バスの旅」のようなものになるだろうか。 この「書物への旅」もまた、後者の「散策」のほうの旅である。僕は病気がちなうえに方向音痴なもので現実の「散策」を楽しむのは難しいから、せめて書物から書物へと気ままな散策の旅をしてみたいのだ。もっとも今回はいささか寄り道が過ぎたうえに、書物の旅でも僕の方向音痴は変わらないのか少しばかり迷子になってしまい、ずいぶん長たらしい文章になってしまったことは、読んでくれた皆さんにお詫びしなくてはならないけれども……。