ふげん社が”築地”を選んだワケ〜その壱〜 Fumi Sekine ディレクターの手記 2014.11.15 こんにちは。みなさまいかがお過ごしでしょうか。ふげん社店主です。 11月22日(土)の開店日から、1週間がたちました。 開店日前日には内覧会を開いて、普段からお世話になっているみなさまに、一足先に店の様子をご覧いただきました。お越し下さったみなさま、ありがとうございました。 みなさまから頂戴したお花 ふげん社は、印刷会社としての64年間のうえに成り立っているということを改めて実感いたしました。みなさまの長年のご愛顧のおかげです。 さて、今回は、ふげん社がなぜ”築地”に店を構えるにいたったのか、なぜ”築地”という土地を選んだのかについて、パーソナルな歴史と日本の近代文化史という二つの面から、ふげん社と築地の関係についてお話させていただこうかと思います。 まずは、ふげん社と築地とのパーソナルなつながりについてお話しいたします。 ①東京オリンピックを間近に控え、銀座にオフィスを構えていた 現在、埼玉県に本社を構える我が社は、戦後間もない1950年、北海道札幌市にて創業いたしました。先代社長である創業者・渡邊實は、当時20代後半。雪印乳業、合同酒精など、北海道を代表する企業を主要取引先としておりました。 その10年後の1960年、東京都に進出し、銀座8丁目の第四秀和ビル(現存)にオフィスを構えました。 当時の東京は、高度経済成長期のまっただ中、戦後の一大イベントであるオリンピック開催を間近に控えておりました。高速道路の建設や川の埋め立てなど、劇的に変貌していく東京の街の中心にオフィスを構えたということは、時代の荒波に自ら飛び込んでいったとも言えるでしょう。 先代が東京にオフィスを構えたタイミングの時代状況は、ふげん社が開店した2014年の時代状況と合致します。 何と言っても、現在の東京は、6年後の2020年に東京オリンピック開催を控えています。1960年代とはまた違った都市開発が行われていくと思われますが、東京がこれから変化の見逃せない街になることは間違いありません。 先代の「渦中に飛び込む」DNAは、現在のふげん社にまで引き継がれていたようです。 ちなみに先代は、1964年10月10日に開催された東京オリンピック開会式を、国立競技場で見ていた群衆のうちの一人でした。 2020年のオリンピックの開会式は、ぜひ現場で目撃したいところです。 現在も残る第四秀和ビル ②先代は、漁師の息子 先代は北海道・小樽出身で、漁師の息子でした。 そのため、魚河岸である築地市場にも強く惹かれたようです。 東京に住み始めてからは足しげく築地に通い、仕入れた魚を自分でさばいて、家族に振る舞っていたそうです。 初代社長・渡邊實(1948年当時25才) 社長夫人・渡邊礼子 自分で料理をするくらいですから、おいしいものを食べること・そして他人に振る舞うことは、人一倍好きだったそうです。 魚河岸の街・そしてグルメの街である築地は、先代も強い思い入れのある土地だったのではないでしょうか。 生きることは食べること、食べることは生きること。食を楽しむことは人生の豊かさにつながります。 店主も食べることが大好きな人間なので、先代のDNAはしっかり受け継がれていると言えるでしょう。 こちらのページでも、築地の飲食店のリポートを随時載せていきますので、お楽しみに! 今回は、ふげん社と築地とのパーソナルなつながりについてお話しました。 次回は、築地と近代文化史について、『ふげん社が”築地”を選んだワケ〜その弐〜』を更新いたします。お楽しみに。