Columns

第7章 一人になること

Beatrix Fife “Bix”

2019.06.18

パリで暮らした2番目の家は、最初の家より明るかった。2階の小さなキッチンが私の部屋だ。小さなシンクもある。お父さんが壁と戸棚にペンキを塗ってくれて、それを手伝った私は、このピンク色の部屋で今一度新しい生活のスタートを切っていた。今度の家は、最初の家ほどは怖くない。でも、夜眠るときにベッドから手脚がはみ出したりしないように気をつけるのは変わらなかった。もしかしたら誰かが、あるいは何かが下からやってきて、私の手脚に触ったり噛みついたりするかもしれないではないか……。引っ越しのときはいつもそうだが、私はたくさんのものを捨ててしまった。なかには、廊下の先の1部屋を一緒に使うことになった弟と妹にあげたものもある。兄も自分だけの部屋をもらっていた。

 

家の外には私だけの人形の家もあって、当然ながら四方を壁で囲まれたその小さな空間は、私がごっこ遊びをする遊び場になった。人形のためのテントはなくしてしまったが、この家の庭には古びた洗濯用の小屋があったのだ。「ビュアンドリー」(フランス語で、大きなシンクを備えた昔ながらの洗濯室のこと)と呼ばれるこの小さな建物は、灰色の石造りで、いくつかある古ぼけた窓は錆び付いて、ひびが入っていた。お母さんもバケツや庭仕事の道具をしまうために使っていたが、これが私の新しい人形の家にもなり、いくつもの役割を果たすことになったわけだ。

 

洗濯小屋の裏庭には、数本の樹木と花々、そして中央には少しだが芝生もあった。

家の前にはガレージがあって、家全体とガレージはツタでおおわれている。祖父の家のぶどう園で、育ったぶどうの木が鉄線からたわわに下がっていた光景が眼に浮かぶ。いたるところにツタがあるのはとても嬉しかった。パリ郊外ではごくごく一般的なものでありながら、かつてのローマでの生活の思い出にも強く結びついていた。

近所の友達と弟と私、ローマの祖父の家のぶどう園にて

妹は3歳だった。家からさほど遠くない幼稚園に通っている。いつも袋をもっていて、あらゆる類いのものをいっぱいにつめこんでいた。あまり話さないけれど、よく笑う子だ。まだとても小さかったから、私や兄弟たちと一緒に遊ぶことができず、よく台所でお母さんと一緒にいるか、犬たちや猫たちと遊んでいた。着ているのは、私や兄や弟がもう着られなくなってしまった服のおさがりだった。

 

秋のことだ。お母さんは毎日、近くの学校に通う私たちを車で送り迎えしてくれた。朝、妹を一番最後におろし、午後には一番最初に迎えにいくのが日課だ。

ある午後、私の学校がいつもより早く終わったので、お母さんは私を最初に迎えにきた。妹の幼稚園のそばで私をおろしたお母さんが、何かを買いにいかなくてはいけないと言った。だからかわりに幼稚園に行って、妹を連れてきて、と頼まれたのだ。

幼稚園の庭では、たくさんの子どもたちが遊んでいた。一緒に走ったり、笑いさざめき合ったり、叫んだり。その子たちのなかに妹がいるかもしれないと思って、私はフェンスごしに中をのぞきこんだ。でも妹はどこにも見つからない。ようやく妹が一人ぼっちで立っているのに気がついた。いつものようにビニール袋を抱えて、そして大きな木にふれながら、何やら話しかけている。

 

心臓が飛び上がった。たぶん、悲しく感じたのだ。なぜなら、誰も妹と遊んでくれていないから。フランス語を話せないから一人ぼっちなのだろうか? 妹には何か、ほかの人たちにわかってもらえないところがあるのだろうか?

妹はゆっくりと木の周りを回っている。突然、チャイムが鳴った。私に気づいた妹はパッと顔を輝かせ、満面の笑顔を浮かべ、門の脇に立っている私めがけて走ってくる。手をつないで、道の反対側にとめてあった車まで二人で歩いていった。

「なぜ木のそばにいたの?」と、私はゆっくりとノルウェー語で訊ねる。

「木だけがおともだちなの」と、妹は私を見あげながら、はっきりとした、だが深刻な声で答えた。答えもやはりノルウェー語だ。

1歳の妹と私

兄と弟にも私にも、学校ではたくさんの友達がいた。でも、私たちは3人が3人とも、ときおりどうしても必要なことがひとつだけあった。おそらく、まだ小さな妹も同じだったのだろう。それは私たち自身の世界を構築するためには、ときには一人になる必要があるということだ。おそらくは、毎日毎日、様々な言語で話し、新しい言葉を学んでいくことに大きなプレッシャーを感じていたためだろう。私たちは、なんらかの行為を通じて、それもそれぞれに特有な行為を通じて、自分たち自身をもう一度見つけ出す必要があった。

兄は、新しい家の部屋に一人とじこもって音楽を聴き、本を読む。

弟も、読書に没頭している。

私は私の人形の家で過ごし、ごっこ遊びをする。

妹はと言えば、私たちの習ったすべての言語をごちゃ混ぜにした言葉で、犬たちや猫たちに話しかけている。

 

たぶん、妹が学校のほかの子どもたちと話すことができないのは、家でもまだノルウェー語を学んでいる途中なのに、同時に学校では、ほかの3歳児たちと一緒にフランス語を学ばなくてはならなかったからだろう。いくつもの言語を同時に浴びることになる子どもたちは、話せるようになるまでにより時間を要する。なぜなら、言語の学習と同時に自己を構築しなければならず、それには時間が必要だからだ。こうした子たちが最初に話せるようになるのは、他の子たちよりももっと遅い。これは当時の私には知りようもなかったが、ずいぶんとあとになって気づいたことだ。そのときの私はただ、妹をもっと守ってあげなくてはいけないと感じただけだった。

 

この新しい国で、新しい言語を得た私たち4人は、いくつもの言語という荷物をたずさえ、自身の考え方をもち、そしてそれぞれがきわめて異なるかたちで反応するようになっていく。それは、私たちそれぞれが得た経験と、それぞれが感じたことに応じて違っていた。

 

言葉は、ときに友人をつくるための橋渡しの道具であり、そしてときに私たちをとり囲む大きな壁のようでもあった。そこでは、孤独であることは避けがたいことだったのだ。

 

Beatrix Fife “Bix”
Beatrix Fife “Bix” プロフィール

ストックホルム生まれ。幼年期をローマで過ごす。幼い時から3ヶ国語を話しピアノを習う。7歳の時、フランスのパリに移ってからフルートを始める。
オスロの大学へ進学後に絵画、演劇を始め、その後ニューヨークのオフブロードウェイでの演出アシスタント を経てブダペストの美術アカデミーでさらに絵画を学ぶ。90年オーストリアの絵画コンクールで入賞したのをきっかけに渡日。 京都にて書家田中心外主宰の「書インターナショナル」に参加。展覧会や音楽活動、ダンスや映像との複合パフォーマンスを行うなどして9年間を過ごす。 95年から99年まで、Marki、Michael Lazarinと共にパフォーマンスグループ「フィロクセラ」として活動。 97年、劇団「態変」音楽を担当、数公演を共にする。
99年、ベルギーに移る。ダンスパフォーマンスや絵画展覧会の他、ブリュッセルの音楽アカデミーでジャズピアノ、フルートを学ぶ。 2005年 ベルギーのエレクトロポップグループNEVEN に参加。2007年以降は Peter Clasen と共にBixmedard(ビックスメダール)として活動。 一方では、フランシュコンテ大学言語学修士を修了し、ブリュッセルにBLA語学スクールを開校、運営。 2010年夏より、再び活動の拠点を日本に移し Bix&Marki でフランス語のオリジナル曲を演奏。 絵画展も随時開催。 語学講師も行う。


■訳者プロフィール
中山ゆかり (なかやま・ゆかり)
翻訳家。慶應義塾大学法学部卒業。英国イースト・アングリア大学にて、美術・建築史学科大学院ディプロマを取得。訳書に、フィリップ・フック『印象派はこうして世界を征服した』、フローラ・フレイザー『ナポレオンの妹』、レニー・ソールズベリー/アリー・スジョ『偽りの来歴 20世紀最大の絵画詐欺事件』、サンディ・ネアン『美術品はなぜ盗まれるのか ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い』(以上、白水社)、デヴィッド・ハジュー『有害コミック撲滅! アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』(共訳、岩波書店)、ルース・バトラー『ロダン 天才のかたち』(共訳、白水社)、フィリップ・フック『サザビーズで朝食を 競売人が明かす美とお金の物語』(フィルムアート社)など。