私の国 第7章 Beatrix Fife “Bix” THE LAND (日本語) 2020.05.19 ある日、私はもう一度、鉛筆で海を描こうと試みる。 ふと気づくと、自分の手が水平線の上にただ機械的にボートのかたちを描いている。 子どもの頃、こうした小舟をよく描いたものだけれど、こうした型にはまったイメージは、私が表したいと思っているものでは全然ない。笑ってしまうが、それから悲しみがやってきて、ぞんざいに鉛筆を投げ出す。いやな気分だ。 フルートの入った黒い楽器ケースをじっと見つめながら、何時間も何年も、ひたすら音階やフレーズの練習に費やしてきた時間のことを考える。絵を描くのも同じなのだろうと思う。フルートの練習をしたときのように、それにふさわしいテクニックを学ばなくてはいけないのだ。でも、そんなことに意味があるのだろうか。だって今の私は、もうその楽器を吹きたくはないのだから……。それでもたぶん私は、絵を描くために皆が親しんでいるテクニックを学ぶ必要があるのだろう。これまで学んだことは一度もない。いや、あるいは習ったことはあるのかもしれないけれど、何も思い出せない。 今のところ、私の頭は矛盾した問いかけでいっぱいだ。まるで巨大な波が襲いかかってきて、どうにかして私を溺れさせようとしているみたいだ。私には、もうほとんど呼吸することもできない。 もう夜になっている。お隣りのあの男の子が再び叫び声を上げる。彼の心は、引き裂かれているのだ。それがどれほどつらいのかが私にはわかる。その叫びが私のなかへと流れこんでくる。怖しい響きだ。両手で両耳をふさいでしまいたい。 母国であるこの国には、数カ月前に着いたばかりだ。これまで住んできた国々を離れることになった私もまた叫んでいる。でも、沈黙の叫びだ。 海の絵を描くことを続けたいと思う。たぶん、この土地の画家たちの絵を見に行ってみるべきだろう。彼らならこの土地の海をよく描いているはずだからと、自分自身にようやく言い聞かせる。翌朝のこと、私ははからずも、文字通り「叫び」を表現している画家の本物の作品を見ることになる。美術館へと足を踏み入れ、何枚もの絵を見ていく。これまでの美術館では、いつも傍観者だったのだけれど、今ではその向こう側には何があるのか、そこの背後には何があるのか——そう、絵の向こう側には何があるのかを知る必要があるのだ。それからは、毎日曜日をこの画家の絵の前で過ごし始め、それが何週間も続いていく。ただ、その絵の一枚一枚を見て、カンヴァスの上に目をさまよわせながら、ゆっくりと少しずつ新しい何かを発見する。じっと座ったまま、私の目だけが動く。筆遣いと深みのある絵の具を見ていると、これまでの生活に起こった出来事が思い出され、私の心から少しずつ霧が晴れていくような心持ちがする。 それはある種の儀式となっていて、彼の絵を見に行くと気持ちが楽になる気がするのだ。毎週日曜日、違う作品を何時間もじっくりと一人で見つめ続ける。こんなにもたくさんの人々が通り過ぎる展示室のなかだというのに。そこのベンチに座っていると、カンヴァスから出て来たその画家が私のそばへとやって来て、何も言わずに私の隣に腰を下ろす。もう叫ぶ必要はない。ただ、絵を通して、彼が私の心に語りかけてくれるのをゆっくりと感じるのだ。それは言葉を超えた、暖かくて穏やかな語り口だ。この人は私を理解してくれている。ぼくはほかの人たちが言うように絵を描く必要はないし、君もぼくのように描く必要などないのだよと、彼は私に言ってくれているようだ。彼の絵が私を慰めてくれる。まだ自分の絵に戻ることはできないけれど、私は自身のなかに何か新しいものを発見しつつある。 acrylic on canvas-paper 18x13cm