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第18回 来るべき2045年 人口知能が写真家を駆逐する日

新納 翔(にいろ・しょう)

2017.02.11

人口知能AI、仮想空間VR、AR、MR・・・新しい技術がこうも次々出てくると、こちらの方が追いつけなくて今何が起きているのか分からなくなる。この現実起きているイノベーションを見ていると、写真家という存在自体が近い将来絶滅するとしてもなんら不思議なことではないと率直に感じてしまう。

様々な企業が最新技術を用いて「優れた」写真を判定したり、人口知能を用いて写真から撮影位置を特定するサービスなどが確立されはじめている。

Googleが開発を進めている人工知能「PlaNet」は写真に写り込んだ景色だけでなく、天候パターンや植生、路面標識、建築物の細部など、人間の認識能力を遥かに超えた視覚的手がかりを使って正確に撮影された場所を特定するという。

写真以外でも人工知能の発達が目覚ましいのは連日のニュースが伝えるところだ。チェスにおいて初めて人間が敗北を期した1997年当時、持ち駒を使えることでチェスに比べより複雑な将棋は、当分の間コンピューターが勝つことはあるまいと大半の人が予測していた。

かつて坂田三吉が言った「銀が泣いている」といったように、人間ならではの情、数値化できぬところにこそ将棋の真髄があると幾人かは考えていたはずである。コンピューターの機械的な効率を求める指し手を超えた、人間の勘というものは計り知れないものであると。しかしその予想は見事外れることになる。

唯一天才・羽生善治氏だけは1996年の取材において、コンピュータが人間を負かすのは2015年頃だと答えている。現状コンピュータの勝率は人間を超えるようになり、プロ棋士でさえコンピュータ将棋の手筋から新しい手筋を学ぶような時代になったのである。

そんなとどまることを知らない人工知能が写真という世界に介入してきたら一体何が起きるのであろうか。

一つ私の立場を明確にしておくと、デジタル時代になった頃から写真という媒体に終わりが近づいていると考えている。4K、8Kと動画がどんどん高解像度になり、シャッタースピードの問題などもやがて解決され、動画から切り出された静止画で十分なクオリティのデータが取り出すことが出来る時代が絶対やってくるだろう。別に現場でシャッターを押す必要がなくなるに違いない、いわば決定的瞬間の消失が起きると予期している。

あと10年もすれば人力で行くのが難しい険しい現場でもドローンで撮影した動画から美しいプリントを作り出す技術ができていてもなんらおかしくないのだ。付け加えるなら、見る側にとって撮影者がどれほど苦労したかという背景は作品を鑑賞する上で切り離すべき問題である。

たかが150年続いた写真という媒体は大きく見れば、少しの間経済発達と共に存在した過去の遺産になってもちっともおかしくない、それが私と写真との関係性であると客観的に自分を見ている。

おそらくコンピュータに人間のような写真が撮れないと考えるのは、独創性、感情から生み出されたもの、時に無駄なことといった曖昧なものが作品を支えているという想いであろう。果たしてそういう曖昧なファクターは本当に数値化できないのであろうか?

2045年に向けて「シンギュラリティ」という言葉が注目されている。研究者の間では2045年には人口知能が人間の知能を超えると予測しているのだ。
人間に残された「曖昧さ」という最後の砦はあっけなく壊されるのではないかと私は考えている。
今すでにその崩壊がシンギュラリティに向けて始まっているのである。

そのことを認識しない者は、すでにテクノロジーに撮らされているだけの存在であることを自覚しなくてはならない。

 

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新納 翔(にいろ・しょう)
新納 翔(にいろ・しょう) プロフィール

1982年横浜生まれ。 麻布学園卒、早稲田大学理工学部にて宇宙物理学専攻するも奈良原一高氏の作品に衝撃を受け、5年次中退、そのまま写真の道を志す。2009年より中藤毅彦氏が代表をつとめる新宿四ツ谷の自主ギャラリー「ニエプス」でメンバーとして2年間活動。以後、川崎市市民ミュージアムで講師を務めるなどしながら、消えゆく都市をテーマに東京を拠点として撮影を続け現在に至る。新潮社にて写真都市論の連載「東京デストロイ・マッピング」を持つなど、執筆活動も精力的に行なっている。写真集『PEELING CITY』を2017年ふげん社より刊行。