第12回 時間についてのエスキース 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2015.11.14 (1) ゆゆ式 (1) (まんがタイムKRコミックス) 去年の今ごろ依頼を受けて書きだしたこの連載も、これで丸一年、十二ヶ月ぶんのコラムを書いてきてひとまず最終回ということになる。月並な言い方になるけれど、時間の経つのは早いなあ、と思わずにはいられない。 ところで時間といえば、三上小又『ゆゆ式』(芳文社)(1)という漫画があって、これが二年前にアニメ化されたことがあった。いわゆる「日常系」「空気系」と呼ばれる、可愛らしい高校生の女の子たちが平凡な学校生活を送るという、この十年ちょっとですっかり定着したジャンルの作品なのだけれど、この『ゆゆ式』は徹底していて、普通この種の漫画アニメで描かれる学校生活のイベントごと、入学式、卒業式、文化祭、体育祭、その他もろもろが一切描かれず、完全に「日常」を描くことに徹したかたちでアニメ化されていた。アニメ版最終回のタイトルが「ノーイベント グッドライフ」だったあたりにも、スタッフがそういう作品と解釈してアニメ化していたことがうかがえる。その代わり、日常の細やかな心の動きなどの描写は驚くほど繊細で、そのあたりで一定のファンを獲得したのだけど、それは別の話なのでここでは触れない。 というわけで時間の話題に戻ると、このアニメの最終回の一話前が「こーゆー時間」というタイトルで、主人公三人組が「時間」についてあれこれ話し合う回だった。『ゆゆ式』の主人公、ゆい・ゆかり・ゆずこの三人組は、他に部員のいない「情報処理部」に所属して、雑談の流れで出てきた「アイス」とか「水」とか、当たり前のようなことを改めてネットでいろいろ調べて、延々と実のない話を続けるというのが基本ラインである。それでこの回は「時間」がなんとなく三人の女子高生のあいだで話題になり、彼女らは早速パソコンに向かって検索をかけるわけだが、はからずもそこで登場するのが中世神学の大物・アウグスティヌスの時間論であった。 ゆずこ「私はそれについて尋ねられなければ時間が何か知っている。尋ねられればそれを知らない。」 ゆかり「なんかへんな人だね?」 ゆい「へんで済ますなよ……」 ゆずこ「ハンバーグ好きだけど、大好き? って聞かれたらうーんってなっちゃうもんね~」 ゆい「うん……うん?」 ゆかり「タマネギ大きめで入ってるハンバーグいいよね~!」 ゆい「ティヌスッ!!」(『ゆゆ式』第10話「こーゆー時間」より) (2) 告白 上 (岩波文庫) アウグスティヌスの話を始めたはずが、悪ふざけの好きなゆずこが比喩になっているのかどうかよくわからないハンバーグの話を持ち出し、天然ボケのゆかりがハンバーグの話に乗っかってしまい、しっかり者のゆいが「(アウグス)ティヌス(の話じゃなかったのかよ)ッ!!」とツッコミを入れる。このしょうもない会話の味わいは、というか『ゆゆ式』という作品の味わいは文字だけで伝えられるものでもなく、原作漫画なりアニメなりを見ていただくほかないのだけど、それはともかくアウグスティヌスである。この有名な言葉を、僕はこのちょっと前にゼミの先輩が研究発表で引用したのでたまたま知った。アニメを語らせたら一家言あるこの先輩は『ゆゆ式』がお気に召さなかったらしく、たびたび「あれはひどい」「つまらない」と言われて僕としては少し切ない気持になったりもしたのだが、それもどうでもいい話だ。アウグスティヌスのこの一節は『告白』の第11巻というところに出てくる。いま僕の手許にある岩波文庫版、服部英次郎訳の『告白(下)』(2)から引用すると、こんな感じだ。 「それでは時間とはいったいなんであるか。だれがそれを容易に説明することができるであろうか。だれがそれを言語に述べるために、まずただ思惟にさえもとらえることができるであろうか。しかし、わたしたちが日常の談話において、時間ほどわたしたちの身に近い熟知されたものとして、語るものがあるであろうか。そしてわたしたちは時間について語るとき、それを理解しているのであり、また、他人が時間について語るのを聞くときにもそれを理解している。それでは、時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、誰か問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである」。 最後の一節が、『ゆゆ式』の三人組がネットで見付けた一節に対応している。なんだかこなれない訳のようだが、もともと読者に配慮して書かれた文芸作品などではないのだし、原文もこんな感じなのだろう。前後を読むとこの時間論は「神が世界を創造する以前に時間はあったのか」という、教義問答というか、異教徒を説得するための議論というか、その種の問答の流れで出てくるのだが、そういったことは少なくとも僕にはあまり関係ない。ただ、普段「時間が足りない」とか「時間をつぶす」とか言っているくせに、いざ改まって「時間とは何か」と考え始めると明確な定義が下せない、すぱっと説明することができない、というのは一般論としてわかることだ。物理学などに詳しい人はあれこれ説明できるのかも知れないけれど、あいにく僕は高校で生物と地学しか履修しなかったので(センター試験は地学で受けた)そのあたりの話にはまったくついていけない。アウグスティヌスは僕と違って賢かっただろうけれど、なにせ時計すらなかった大昔の人である。彼はやたらと「主よ、」を連呼したり、何度も「この謎の解決を神に乞い求め」たりしながら、時間について精緻な分析を積み重ねる。京都学派の哲学者・田辺元は精密きわまる時間論の古典として東は道元『正法眼蔵』の「有時論」、西はこのアウグスティヌス『告白』の時間論を挙げているらしい(竹之内静雄『先師先人』講談社文芸文庫)。そんな積み重ねの果てにアウグスティヌスが到達する結論はこんな具合だ。 「すなわち未来も過去も存在せず、また三つの時間すなわち、過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。それよりはむしろ、三つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさい、これらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外にわたしはそれらのものを認めないのである。すなわち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待である」(『告白』)。 現在、という言葉が「いま現在」という意味と「現に在る」という意味と、二つの意味で使われていることを了解できれば、いたって常識的な結論である。過去に起こったことは記憶として、現在起こっていることは直覚として、未来に起こるであろうことは期待として、それぞれわたしの心に「いま現在」「現に在る」というわけだ。これが時間論の古典だと言われてしまうとちょっと面喰わないでもないけれど、時間とは何ぞやという難問に対して一応のはっきりとした答えを出してみせ、またそれが現在の僕たちにも何となく常識的な感覚としてなるほどと納得がいくような内容であることは、きっとそれなりに、というかかなり偉いことなのだろう。このあと、アウグスティヌスは「時間はどうやって測られるのか」ということについて、相変わらず神に助けを請いながら話を進めていくのだけれど、それはもう追わないことにする。 (3) 時と永遠 他八篇 (岩波文庫) このアウグスティヌスの時間論に冒頭で触れて「總じてアウグスティヌスの時の論は觀點と所見とを異にするものも尊敬と感謝とをもつて仰ぎ見るべき劃期的業績である」と言うのが、キリスト教(プロテスタント)の信仰に立脚した京都学派の宗教哲学者・波多野精一の名著『時と永遠』(3)である。 (4) 田中小実昌エッセイ・コレクション〈5〉コトバ (ちくま文庫)【絶版】 この本は読もうと思えば青空文庫で読めるし、数年前に岩波文庫に入ったので旧字旧仮名が苦手な方にはそちらを薦める。僕は図書館で廃棄扱いになっていたのを貰ってきた、岩波書店の『波多野精一全集』で読んでいる。『時と永遠』は文章こそいくぶん古めかしいものの明晰な論理に貫かれており、この連載に何度か出てきた田中小実昌も「すっきり、さわやか」という言葉でこの本をいたく褒めている(『田中小実昌エッセイ・コレクション コトバ』ちくま文庫(4))。波多野精一はアウグスティヌスの時間論ともう一人、このころ時間論の哲学者として世界的に名をはせていたベルクソンの思想について検討しながら、概略次のように自己の時間論を提示している。なお波多野は「未来」という言葉を嫌い、「将来」を用いる人である。 (4) 田中小実昌エッセイ・コレクション〈5〉コトバ (ちくま文庫)【絶版】 「『現在』は主體の自己主張に基づき生の充實・存在の所有を意味するものとして中心に位しそこよりして時の全體を包括する。之に反して『過去』は生の壞滅・存在の喪失・非存在への沒入である。しかしてこれら兩者を成立たしめる主體と他者との接觸交渉に對應するものが『將來』である。將來は絶えず流れ去る現在絶えず無くなり行く存在を補給しつつ維持する役目を演ずると同時に、又それの過去への絶え間なき移り行きの原因ともなる。將に來らんとするものはいつも來つて現在となりつつ、しかも他方それの向ひ行く現在にいつまでも出會ふことなしにをはる。將來と現在との間に存するこの矛盾的關係は畢竟主體と他者とが生及び存在の眞の共同に達し居らぬことを指し示す。後に説くであらう如く、永遠性における時間性の克服は主としてこの點に手掛かりを見出すであらう」(『時と永遠』)。 旧字旧仮名のうえに窮屈な文章で読みにくいかも知れないが、要するに「現在」の生や存在は「過去」に向けて絶え間なく失われていくのだが、そこに「将来」から絶えず生や存在が「補給」されることで「現在」は持続していく。だから時間性を徹底したところにあらわれる「死」というのは、もう「将来」から生や存在が補給されなくなり、「過去」へと生も存在も失われてしまうことを指す。 「死は自然的時間性、時の不可逆性、の徹底化である。主體のその都度の現在だけではなく、全き現在の即ち生の全體の壞滅、無への沒入が死である。統一的全體的主體にとつて存在の維持者である實在的他者との交渉が斷たれ、從つて根源的意義における將來が無くなることが死である。對手を失つた主體、將來の無き生、これが死である。吾々はすでに、根源的時間性において現在が過去へと存在を失ひつつ、しかも將來より補給されるを見た。絶えず非存在へと過ぎ去りつつしかもなほ現在が成立つのは、將來があり他者との交渉があるからである。存在の補給路が全く斷たれたる現在、全く孤獨に陷つた主體、去るあるのみ待つもの來るものの全く無くなつた生は滅びる外はない。主體のかくの如き全面的徹底的壞滅こそ死である」(『時と永遠』)。 田中小実昌も言っていることだが、波多野精一の時間論で面白いところは主体が「将来」という時間から存在を補給されるための根拠を「実在的他者との交渉」に置いているところにある。そして主体と他者とが「生及び真の共同」に達するとき、初めて人間は「死=時間性」を克服して「永遠」に到達するのだ。波多野は言う。 「死は時間性の徹底化である。從つて時間性の克服は死のそれにおいてはじめて完きを得、逆に又死の克服は時間性のそれによつてはじめて成就される。ここよりして次の事どもが歸結される。第一。時間性及びそれに基づくこの世の苦惱はややもすれば死そのものによつて克服されるが如く思はれ易い。死をもつて生の一種の形とする思想がいかに根強く人心を支配しをるかを思へば、この考へ方感じ方が通俗的に揮ふ勢力は首肯かれる。しかしながらそれが全く錯覺に過ぎぬことは上の論述によつてすでに明かにされた。尤もその思想の一理あるは許容すべきであらう。死は他者よりの離脱として主體にとつてはたしかにこの世を去るを意味する。死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦惱よりの解脱である。ただ惜しむべきはその解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味することである。世の惱みは主體の自己主張の抑壓否定に基づくとすれば、死は却つてこの世の惱みの徹底化といふべきである。ここより觀れば、世の惱みこそむしろ死の前兆又は先驅と解すべきであらう。 第二。吾々は時間性の克服である永遠性は同時に死の克服でなければならぬこと、又死の克服は永遠としてのみ成就されることを知る。生の繼續に過ぎぬ不死性の觀念が、永遠性の又從つて死の克服の要求に副はぬことは、すでにここよりしても明かである。永遠性の正しき理解を求むべき方向もすでにここに指し示されてゐる。主體の現在が將來を失ふことが死であるならば、永遠は過去が無く將來のみある現在である。それと聯關して、死は他者よりの完き離脱であるに反し、永遠は他者との生の完全なる共同でなければならぬ。孤獨は死を意味し、永遠は愛としてのみ成立つのである」(『時と永遠』)。 永遠は生の継続ではない。それはただの不死だ。死、それは他者との完全な離別である。孤独である。その死を克服するためには、他者との生の完全なる共同、つまり「愛」が鍵になってくる。……と、こう言ってしまうといかにもキリスト教の哲学者という感じがするけれど、その前段が素晴らしいではないか。この世の苦悩はおよそ突き詰めて考えれば時間に由来する。その苦悩から解脱するためには、時間を克服するためには、もう死ぬ以外どうしようもないのではない。人はそう思い込みがちである。そしてともすれば苦悩から解放されるため、自ら死を選んだりもする。波多野精一がこれを書いていたのはあの戦争中のことであり、さらに『時と永遠』の冒頭には「亡き妻の記念に」の献辞がある。波多野は妻の死に直面しながら思索を重ね、この文章を綴ったのだ。苦しみ、悩み、いっそ死んだ方が楽になれるのではないか、と思ったことだってあったかも知れない。 しかし「死は或る意味においてはたしかに時間性及びこの世の苦惱よりの解脱である」けれども「その解脱は同時に解脱する筈の主體の壞滅を意味する」と波多野は言う。死ねば悩みから解放されるはずが、死んでしまえば悩んでいた主体、解放を望んでいた自分もまたいなくなってしまう。それでは救われない。波多野はそこからまた立ち上がる。そして歩きだすのだ。愛へ、他者へ、将来へ、永遠へ向かって。 ところで波多野精一は何かと西田幾多郎と比較されることの多い哲学者である。京都学派の大スター、日本最初の独創的哲学者、東西思想の融合、と持ちあげられる西田に比べると、キリスト教とギリシャ文明に基礎を置く西洋派の学究で、若くして『西洋哲学史要』(角川文庫/未知谷)をまとめあげた豊富な学殖をもとに思索を展開した波多野は、誠実ではあっても、いくぶん地味な印象がつきまとう。エッセイや時事的な文章も盛んに書いた西田に対して、波多野はその種の依頼をいっさい断ち(数少ない例外が非業の死を遂げた愛弟子・三木清の追悼文である)、ひたすら研究と教育に専念、著作と著作とのあいだに十年以上の沈黙期間を挟むこともあったという、典型的な、こちこちのアカデミズムの人だった。どちらが偉いとも言えないし、西田幾多郎の著作も面白いけれど、西田の晦渋より波多野の明晰の方が僕個人の気性に合うこともあり、少々の判官びいきも混じえつつ、僕は波多野精一のほうをよりお薦めしたいと思っている。 (5)哲学の三つの伝統 他十二篇 (岩波文庫) ちなみに西田幾多郎の時間論については、京都学派のなかでも最年少の部類に位置するであろう野田又夫の回想「昭和六年頃の西田哲学」(『哲学の三つの伝統』岩波文庫(5))によると、こんな具合である。「絶対無の自己限定は、時間に関しては、永遠の今の自己限定ということであり、『われわれは永遠の現在で足踏みしている』、『まりつきをしているようなものだ』、そしてさらに、われわれは『ガラスの面に字を書いているようなもので、消せばすぐ消える』ともいわれた」。野田はこの最後の「ガラスの面に字を書く」という比喩を、西田の随筆集『続思索と体験』(これも岩波文庫で読める)に原文で引用された詩人キーツの墓碑銘と結び付けている。Here lies one whose name was writ in water. その名を水に記されし者ここに眠る……。 永遠の現在、なんて言葉が出てくるあたり、西田の時間論は波多野のそれに比べていくらか日本的なのかな、と思わなくもない。少なくとも波多野のいう「永遠」とここでいう永遠とはぜんぜん別物だろう。西田、波多野ときて京都学派からもう一人、さらに「日本」とか「東洋」とかいうことを念頭に置いて時間について思索をめぐらした哲学者として、九鬼周造も紹介しておきたい。 (6)「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) この二つの講演は坂本賢三という人の訳で『九鬼周造全集』(岩波書店。新版が現在刊行中)(7)に収録されており、より手に取りやすいかたちでは、先述の草稿「いきの本質」や、のちに作家となる井上靖の京大美学科の卒論「ヴァレリーの純粋詩論」の口頭試問に際して書かれた心覚えのメモ(これは全集にも未収録)などとともに『九鬼周造エッセンス』(こぶし書房)(8)に収められている。また直接の翻訳ではないものの、生前の九鬼自身の手になる日本語でのリライトとして「形而上学的時間」(『人間と実存』岩波書店)なる一文もあることを付け加えておこう。この一文はほぼ構成も「ポンティニー講演」と同じだが、敢えて違いを言うとすれば、講演の時点でも既に触れられていたハイデガーに関する記述が、ここではさらに詳しくなっている。九鬼がハイデガーのもとで学んだ期間はそう長くはないし、他にもたくさんの日本人哲学者がハイデガーに就いて学んだはずだが、ハイデガーの方でも九鬼のことをとりわけよく覚えていたらしい。戦後(九鬼は戦時中に亡くなった)になって独文学者の手塚富雄と交わした対話をもとにした著作『言葉についての対話』(平凡社ライブラリー)(9)でも、この老哲学者はかつて自分のもとで学んだ日本の貴公子バロン・クキの思い出から語り出している。 (7) 「いき」の構造 (九鬼周造全集 第一巻) (8) 九鬼周造エッセンス―戦後日本思想の原点 (こぶし文庫) (9) 言葉についての対話―日本人と問う人とのあいだの (平凡社ライブラリー) そのバロン九鬼、若き日の面目躍如たるポンティニー講演は「もし『東洋的時間』について語る権利があるとすれば、何よりも回帰的時間が重要であると思われる。回帰的時間とは、繰り返す時間、周期的な時間である」と説き起こされる。気鋭の哲学者はベルクソンやライプニッツに触れるかと思えば、ハイデガーの「水平的エクスタシス」に対して「垂直的エクスタシス」を説き、ニーチェの永劫回帰を媒介として東洋のウパニシャッド哲学や「那先比丘尼経」の輪廻思想、さらには武士道にまで話を広げながら、あくまでフランス流のエレガントな論理――これは九鬼の著作に終生ついてまわる特長である――を駆使して見事に論を進めていく。 (10) 映画『曼陀羅』(1971年、ATG系) 東洋の回帰的時間などと言われると、「種まきと収穫との間の時間」「春祭と秋祭との間の時間」を「毎年周期的に繰り返す」ような農耕民族としての時間感覚に結び付けて考えそうになるが、この「農業的時間」ないし「神祇的時間」という比較社会学ふうの見方をも、九鬼周造は例によって華麗な論理で退けている。そういえば実相寺昭雄監督の映画『曼陀羅』(1971年、ATG系)(10)は、学生運動に挫折した二組の男女が海辺のラブホテルでスワッピングに耽ったのをきっかけに、ホテルの経営者夫婦がひそかに運営する農業とセックスによって結び付いた前近代的な共同体へと巻き込まれていく物語だが、その共同体はまさに西洋的、近代的な時間、すなわち直線的に進む時間を拒否する人々によって構成される「農業的、神祇的時間」の小宇宙であった。芸術ポルノなどと呼ばれたこの映画はねちっこい濡れ場と実相寺特有の奇抜なカメラアングルに加えて、学生運動くずれの若者たちによる「時間」と「革命」をめぐる青臭い、観念的な議論に彩られている。 (11) マロニエの花が言った〈上巻〉【絶版】 ちなみに、早稲田仏文の大先輩である実相寺監督が持ち出す議論の道具立ては、思想家ならドイツのマルクスやエンゲルスではなくフランスのフーリエやサン=シモンだったり、はたまたパリ・コミューンで最初に労働者が破壊した権力の象徴こそが「時計台」だという逸話だったりした。ともあれ、映画の終盤にこの共同体はあっけなく崩壊を迎えるのだが、そんな映画を観たばかりということもあり、僕は九鬼周造を読み返しながら、なぜあの共同体は崩壊せねばならなかったのか、などとしばし考えたりした。 そんな農業的、神祇的な「周期的時間」とは別のところに、では九鬼はいかなる「回帰的時間」を見出したのか。清岡卓行の最後の小説『マロニエの花が云った』(新潮社)(11)にも引かれた有名な一節を、少し長くなるけれど、煩を厭わず引用してみよう。 「いつも皮相だと思うのは、ギリシア人がシシュフォスの神話の中に地獄の劫罰を見たことである。彼が岩塊を殆ど頂上まで押し上げると岩は再び落ちてしまう。そして彼は永遠にこれを繰り返す。このことの中に、不幸があるであろうか。罰があるであろうか。私には理解できない。私は信じない。すべてはシシュフォスの主観的態度に依存する。彼の善意志、つねに繰り返そうとし、つねに岩塊を押し上げようとする確固たる意志は、この繰り返しそのものの中に全道徳を、従って彼の全幸福を見出すのである。シシュフォスは不満足を永遠に繰り返すことができるのであるから幸福でなければならない。これは道徳感情に熱中している人間なのである。彼は地獄にいるのではなく、天国にいるのである。すべてはシシュフォスの主観的見地に依存する。あえて一つの例をあげよう。五年前、東京の大半を破壊した大地震の直後、我々は東京に地下鉄の建設を始めた。そのとき私はヨーロッパにいて、『ほとんど百年毎に周期的にくる大地震でつねに破壊されるように運命づけられている地下鉄を、なぜ建設するのか』とたずねられた。私は答えた、『我々が関心を抱くのは企画そのものであって目的ではない。我々は地下鉄を建設しようとしているが、地震が起これば破壊されるであろう。しかし我々は再びそれを建設しようとする。新たな地震がまたもやこれを破壊するであろうが、しかり、我々はつねに新たに取りかかるであろう。我々が評価するのは意志そのもの、自己自身を完成しようとする意志なのである』と」(「時間の観念と東洋における時間の反復」『九鬼周造エッセンス』(8))。 かっこいい文章である。カミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫)(12)に先駆けて、この神話の積極的読み換えを試みているところなど、素晴らしい先駆性ともいえる。関東大震災と日本初の地下鉄開業をめぐる箇所などは、きっと東日本大震災のあと、いろいろなところで引用されたに違いない。でも、と、僕は違和感を禁じえない。僕たちはそんなに泰然として運命を引き受けられるだろうか、と。この種の思想をもっと凝縮されたかたちで盛り込んだ文章として、九鬼には「青海波」「偶然と運命」などの随筆があるが(いずれも岩波文庫『九鬼周造随筆集』(13)に所収)、これらの見事な文章を、サムライらしい覚悟を、僕はどうにも素直に受け容れる気持ちにはなれなかったし、なれない。 (12) シーシュポスの神話 (新潮文庫) (13) 九鬼周造随筆集 (岩波文庫) ところで九鬼はハイデガーの他にもう一人、時間論を語るうえで欠かせない20世紀の大哲学者アンリ・ベルクソンとも交友をもち、彼のノーベル賞受賞を記念した文学雑誌に「日本におけるベルクソン(Bergson au Japon)」と題した一文(『九鬼周造全集』所収)を発表までしている。このあたりの経緯は「回想のアンリ・ベルグソン」(『九鬼周造随筆集』所収)に詳しい。 ここで「純粋持続」を核とするベルクソンの独創的な時間論を紹介するいとまはないから、彼の主著をざっと列挙するにとどめたい。ベルクソンのフランス語は名文だというが、そのせいか邦訳にも優れたものが多い(そうでないものもあるが……)。夏目漱石や芥川龍之介、中原中也や小林秀雄といった文学者たちも賛辞を惜しまなかった最初の著書『時間と自由』(14)は岩波文庫などで読めるし、時間から記憶へと問題意識をシフトさせた名著『物質と記憶』(15)は最近になって岩波文庫から熊野純彦による新訳が出たし(ちなみに旧訳は東北大の総長をつとめた哲学者・高橋里美の若き日の訳業であった)、やや入手困難ながら岡部聰夫による素晴らしい邦訳が駿河台出版社から出ている。ドゥルーズ『シネマ』二部作(法政大学出版局)(16)によって新たな側面が照らし出されたこの著作はベルクソンにしては難解だが、じっくり時間をかけて取り組んでみるだけの価値はある。入門編に適した短論文集『思想と動くもの』(岩波文庫)には碩学・河野与一の名訳があるほか、『思想と動き』(17)の題で『精神のエネルギー』と併せて平凡社ライブラリーから原章二による新訳が出ている。この二冊からの抜粋による『哲学的直観ほか』(中公クラシックス)も手ごろだし、同じシリーズには『道徳と宗教の二源泉』も分冊で入っている。前にこの連載でも紹介したことのある真方敬道訳『創造的進化』(岩波文庫)(18)はもちろんお薦めできるし、白水社からはもともと出ていた全集に加えて、現在新たに竹内信夫個人全訳によるベルクソン全集(19)が刊行されている。いちばん手に取りやすいのは合田正人ほかの共訳によるちくま学芸文庫版だが、これは強いて言えばフランス語原文を読むための参考書向きで、日本語訳だけで読むのにはあまり向かない。 (14) 時間と自由 (岩波文庫) (15) 物質と記憶 (岩波文庫) (16) シネマ 1*運動イメージ(法政大学出版局) (17) 思考と動き (平凡社ライブラリー) (18) 創造的進化(岩波文庫) (19) 意識に直接与えられているものについての試論 (新訳ベルクソン全集(第1巻 そんなベルクソンを独自に摂取しつつ、プルースト(彼の小説は発表当時「ベルクソニスムの小説」と呼ばれたという)やヴィリエ=ド=リラダン、ボードレールやヴァレリーといった具合に、自在に文学作品を引き合いに出しながら展開する不思議な時間論に吉田健一『時間』(講談社文芸文庫)(20)がある。戦後の名宰相・吉田茂の長男ながら政界から身を遠ざけて文人として独自の地位を築いたこの「文士」――と吉田は自称していた――の評価は今日いよいよ高まる一方、特にこの『時間』は晩年の傑作としていろんな人々が言葉を尽くして絶賛している。遂には俳優の加瀬亮が映画の撮影に小道具としてなにか文庫本をもってくるよう監督から言われ、何冊かもっていったうちこの本が撮影に使われたというのでミーハーなファン層にもずいぶん売れたらしい。 (20) 時間 (講談社文芸文庫) と、いう書き方から推測のつく方もおられるかも知れないが、僕は吉田健一の、というよりは『時間』のよい読者ではなかった。彼の文章はよく悪文だといわれるが少なくとも僕にとってそんなことはなくて、酒や食物に関するエッセイ、はたまた自伝的文章を集めた『交友録』(講談社文芸文庫)(21)や書物をめぐる『書架記』(中公文庫)(22)など、さしてストレスを感じずに愛読してきた著作は数多い。それが『時間』となるとどうも苦手だったというのは、もともと句読点が少なく曲がりくねって進むような吉田健一独特の文体が、この本では極端なまでに推し進められていたこと、そしてその異様な文体そのものが読者の「時間」感覚を揺さぶって特異な経験をさせるという点で内容と切り離せない重要なファクターとなっていることによるのだと思う。雑誌連載だったこの本の任意の章からその冒頭を引いてみれば、僕が『時間』に対してもった苦手意識も少しは御理解いただけるのではあるまいか。 (21) 交遊録 (講談社文芸文庫) (22) 書架記 (中公文庫)【絶版】 「人間は自分を固定したものと見るから時間の経過を絶えず何かが自分から去って行くことのように思うことになるに違いない。この錯覚が生じるのは自分の意識、或はこの意識という働きの意識が常に同一のもので自分というものを追って行けば結局はこの意識に帰着する為でなければならなくて自分という人間も時間とともに経過して同一の人間であることがなくてもその自分を意識することで意識に上るものは曾て変ることがなくて自分というのがどういうものであるか強いて求めるならばそれがこの意識である」(XII)。 どうだろう。興味のない者にはほとんど怪文書、よーしと意気込んで読んでも途中で頭がこんがらがって挫折してしまう人も多いのではなかろうか。例によってだらだらと長く続いてきた文章の終盤近くになってこんな引用を読まされたのでは、ただでさえお疲れの読者諸氏におかれましてはさぞかしお怒りのことと推察する。この原稿を書き始めてからそろそろ五時間、僕もいい加減くたびれて、身体のあちこちがバキバキときしみ音を立てはじめた。こう消耗したときに吉田健一を読まされては頭に入ってくるはずがない、それも『時間』のようなしんどい文章を読むのは、よっぽど体力のあるときに限る。 僕自身、この『時間』は体力のあるときでなければ読めまいと思っていたくちだ。そして自分は人並みの体力を持ち合せていないから、ひょっとすると一生この本を読まずに終わってしまうのかも知れないとまで思っていた。ところが、気力と体力とに任せて最初から最後まで読破してやろうと鼻息荒く構えるのでなく、さきごろ、風邪をひいて煎餅布団に臥せっていたとき、ふと手近にあったこの文庫本を手にとって適当なページを開き、読むともなしにあちこち拾い読みを始めたら、これがすうっと、砂地に水の浸みこむように受け容れられたのである。自分でもびっくりした。 しかし考えてみれば著者だってこの本をいちどきに書いたのではあるまい、毎月少しずつの連載、それに各章だって一気に書いたのではなく、中断をはさみながら一ヶ月たっぷりかけて書いたのかも知れない。律儀に初めから終わりまで付き合って「時間」の重みを全身で感じるだけが読書ではなかろう。そもそも時間なんて始まりも終わりもないようなものなのだから――などと言うと理科系の方から訂正されるかも知れないが――どこで読み始めてどこか途中で読みさしにするのも読者の勝手である。そう思って改めて読んでみると、なるほどどこを開いても滋味に富んだ、密度の高い一冊である。ちょうど時間がどの一点をとってみても時間であるように、『時間』はどの頁を開いてみても『時間』なのである。 「時間が現在の持続なのだということが大事なのでそのどの一点も時間であって時間であるから現在であり、このことがあって我々は生きていて又生きていることを意識する。或は意識するかしないかで生きていたり生きていなかったりして意識するのは時間の経過、従って時間であってそこにその時間とともに過ぎて行く自分を見出すから自分が生きていることも意識する。又この持続を時間の方向からすれば遡って行くことが理解するということでもあって或る対象をそれが置かれた現在のうちに、その現在の状態で見ることでこれが生きて来てそれが生きているから我々はその通りと思う。又それが生きる喜びでもある」(V)。 或る対象、とか、生きる喜び、とかいったあたりは、なんとなく前の方に引用した波多野精一『時と永遠』の「他者との生の完全なる共同」とか「愛」とか、そういうものが時間の中で生きる主体にとって必要なのだという話にどこか似ているというか、通じるような気もする。哲学的な時間論というのはそんな「似ている」「気もする」では済まされない厳密なものなのかも知れないけれど、僕たちは時間の中でしか生きることができないし、時間の中でしか他者と出逢い、ふれあい、生きる喜びを感じることもできない。突き詰めてしまえば時間とは生きることであり、生きる喜びであるのだろう。 (23) 教祖の文学・不良少年とキリスト (講談社文芸文庫) ともあれ、僕も読者もずいぶん時間を無駄にした。いくらなんでも長すぎる。ここいらで「時間」についてのくだくだしい議論を一刀両断する、坂口安吾の爽快な啖呵を引いて終わりにしよう。この一節は情死した太宰治を悼む文章(講談社文庫『教祖の文学・不良少年とキリスト』(23)のほか、青空文庫でも読める)に出てくる。恐らくは口述筆記、それも太宰の死に打ちひしがれて、そうとう酒も入っているのではないか、はちゃめちゃな千鳥足のような文章だが、それこそ安吾という人の真骨頂でもある。時間って、いったい、なんですか。安吾さん。 「時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です」(「不良少年とキリスト」)。 『書物への旅』記事一覧 連載コラム一覧に戻る ご感想はこちらのフォームからお寄せください