第3回 木漏れ日の哲学者 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅〜記憶=私の不確かさをめぐる12の断章〜(第2期) 2016.04.05 すべてのものは吾にむかひて 死ねといふ、 わが水無月のなどかくはうつくしき。――伊東静雄「水中花」 以前、なにかのサイトで「他の言語には訳せない各国独自のことば」をいくつか集めた英語の記事を読んだことがあった。フランス語のdépaysementなどと並んで、日本語からは「木漏れ日」という単語が紹介されていた。葉をつけた木の、その葉と葉の隙間から木陰に射しこむ僅かな陽光を一語であらわすことが、他の国語ではかなわないらしい。真偽のほどはわからないが、なんとなく心に残る挿話であった。 それで思い出したのだが、堀辰雄に「Ombra di Venezia」という小品がある。題はイタリア語で「ヴェネチアの日蔭」という意味だ。Ombraという単語を「影」でも「陰」でもなく、草かんむり付きの「蔭」と訳すと、どことなく葉影とその隙間をこぼれてくる木漏れ日が目に浮かんでくる。そんなヴェネチアの木漏れ日を浴びながら、ある人物が著述にとりかかる姿を、フランス語の伝記に拠りながら堀辰雄は鮮やかに描き出してゆく。 彼はヴェネチアでは「あるバロック式の古い館の、大理石を敷きつめた大きな室の中に住んでゐた。そこから聖マルコ寺院までは、埃のない、日蔭の多い、もの靜かな通りを、三十分位で散歩して來られた」。彼はその日蔭を愛するあまり、そのとき書きかけていた書物に『ヴェネチアの日蔭(Ombra di Venezia)』という表題を与えるつもりでいたのだという。「彼の生活は細心に規則的であつた。毎朝七時か八時頃から仕事にとりかかる。それから散歩と粗末な食事。二時過ぎになると、友人のぺエタア・ガストがやつて來る」。この「ぺエタア・ガスト」というのは、彼がむかし大学の教師をしていた頃の教え子で、作曲家志望の男である。彼をヴェネチアに呼んだのもガストなら、病身の彼の身の回りの世話や原稿の清書、口述筆記などを手伝うのも今となってはガストだけである。「そのガストが暫らく一緒にゐてから歸ると、又改めて七時半まで仕事をする。すると再びガストがやつて來て、夕食を共にする。ときには半熟の卵と水だけですましてしまふこともある。それから大概、一緒にガストの家に行つて、代る代るピアノを彈き合ふ」。こうなるとガストはショパンに心酔しているので、彼の曲ばかりを弾く。「彼」は文筆を生業としているが作曲の心得もあり、自分で作曲したものを弾くこともあるが、ガストに感化されたのだろう、すっかりショパンの虜になってしまったという。 ガストの名前でわかってしまった人も多かろうが、この「彼」というのはフリードリヒ・ニーチェ。あの「神は死んだ」のニーチェである。若くしてバーゼル大学の古典文献学教授となったニーチェが『悲劇の誕生』で非難を浴び、心身の健康を害したこともあって十年ほどで職を退いたことはよく知られている。その後のニーチェは教授時代の年金で暮らしながら、あちこちを旅して著作を残した。その最初の旅がこのヴェネチア滞在であり、そこで書かれたのがOmbra di Venezia改め、現在『曙光』の名で知られている書物である。堀辰雄が依拠したのはギイ・ド・プウルタレスの『伊太利に在りし日のニイチェ(Nietzsche en Italie)』というフランス語の本で、どれほどこの本に負うところが大きいのかはわかりかねるが、それにしてもあのニーチェが堀辰雄の手にかかると一気に『風立ちぬ』めいてくるというか、神の死を宣告する激越な思想家でなしに、ショパンを愛する繊細な病詩人といった趣きになってしまうのが面白い。しかし僕たちが聞きかじりの知識から勝手なイメージを抱いているだけで、意外とニーチェの実像はこちらの方に近かったのかも知れない。 ニーチェ全集〈15〉この人を見よ 自伝集 (ちくま学芸文庫) 堀辰雄は続けて「ショパンとニイチェ。――この二人の病人、この二人の純潔な情熱家、この二人のいたるところを漂泊する孤獨者の間には、魂の血縁といふやうなものがありさうである。この二人の中で和音をして顫動してゐるものは、先づ、生きんとする劇的な悦びであらう」と書き、ニーチェの『この人を見よ』から次のような一節を引いてみせる。「由來、獨逸人のごときものに音樂の何たるかが解せられようとは私は思ひも及ばぬ。獨逸音樂家と稱せられてゐるものは、ことにそのうちの最も偉大なるものは、外國人である。スラヴ人か、墺太利人か、伊太利人か、和蘭人か、――或は猶太人である。さもなくば、ハインリヒ・シュッツやバッハやヘンデルのごとき優秀なる種族、今日では既に亡びたる種族の獨逸人である。私自身は、ショパンのためになら他のあらゆる音樂を犧牲にしてもいいと思ふほど、自分が充分に波蘭土人であることを感じてゐる」。 念のため補足しておけば墺太利はオーストリア、和蘭はオランダ、猶太はユダヤ、波蘭土はポーランドである(ニーチェは自分がポーランド貴族の血を引いていると信じていた)。こういう一節を書きつけることのできたニーチェの著作が、しばらくするとナチスの御用思想家として利用されてしまうのだから時代というのは怖いものだ。堀辰雄がこの文章を雑誌に発表したのは昭和11年。そろそろアジアもヨーロッパもきな臭くなってきた御時世である。 閑話休題。ヴェネチアの木漏れ日を愛したニーチェは、そのものずばり「ヴェニス」という詩を残している。片山敏彦の訳で引用しよう。 褐(かち)色の夜(よる)の 橋の袂に われは近頃佇みぬ。 そのとき 遠方(をちかた)より歌声聞こえ こんじきの滴は うちふるふ水のおもてを辷りて湧きぬ―― ゴンドラと かずかずの灯(ひ)と 音楽と。 そは恍惚として 薄暗がりに消えゆきぬ…… わが魂も琴となりて 見えざる者にかなでられ ひそやかに 舟唄をひとりうたひて 綾の色うるはしきさいはひに顫へたり。 ――その歌を 誰か聴きし者ありや? 高橋 英夫「果樹園の蜜蜂 わが青春のドイツ文学」(岩波書店) 独文学者で批評家としても知られる高橋英夫は『果樹園の蜜蜂』でこの訳詩を紹介して「ニーチェがどう感ずるか知れないが、私は読者・聴き手の特権で、メンデルスゾーンやショパンの舟歌をこれを読むと連想してしまう」と評している。僕はドイツ語ができないからニーチェの原詩の味わいを知るべくもないが、訳詩で「夜」や「灯」のような簡単な漢字にも敢えてルビが振られているあたり、少なくとも翻訳者の片山が最大限に詩の音楽性を尊重した翻訳を試みたことは確かだろう。古井由吉は大学のドイツ語教師時代、ニーチェの文章を教材に取り上げるとき、その原文の躍動感がどうしてもうまく日本語に移せないことにずいぶん苛立ったという。そしてその回想に続けてこう言うのだ。「私はニーチェなる存在を、まず文章の達人と受け取っていた。そしてこの文章における練達こそ、ニーチェの場合にはまさに思想の行為と見たのである。いわゆる思想史の内にニーチェの一章を設けるべきか、言い方が大胆になるようで困るのだが、私には疑問であった。しかし文章史の内ならば何章を割いても足らぬことであろうと思えた」。 詩にしても、散文にしても、ニーチェのドイツ語は驚くほど躍動感に満ちた、華麗なものなのだと聞く。ドイツ語を知らない僕は邦訳や仏訳でニーチェの頁を繰るたび、その強烈な毒気にあてられて頭がクラクラしてしまうが、ひょっとすると本当はそうした内容の激しさは、ニーチェの文章の流麗さを前にしては取るに足らぬことなのかも知れない。たぶんニーチェは、ヴェネチアでペーター・ガストと代わる代わるにショパンを弾いていたのと同じ軽妙さをもって、繊細にして鮮やかな文章を綴っていったのではあるまいか。 フリードリヒ・ニーチェ 喜ばしき知恵 (河出文庫) 僕は村井則夫による新訳で『喜ばしき知恵』を久々に読み返してみた。有名な「神の死」が宣告される激越なこの書で、しかしニーチェは詩、韻律、文学といったものの起源には音楽があるという観点から、こう書いている。「哲学者なるものが存在するはるか以前から、音楽が――しかもそこに働く律動(リズム)によって――情念を発散し、魂を純化し、『魂の狂乱』を和らげる力をもつことを人間は知っていた。魂の健全な緊張と調和が失われたときは、歌い手の拍子に合わせて、踊らねばならない――」。ニーチェが哲学者であるかどうか、僕は知らない。けれど、きっと彼の文章もまたそれ自体が舞踏のような華麗なものであろうと思うのである。ニーチェは続ける。「韻律を使えば、すべてを成し遂げることができたのだ。魔法のように仕事を捗(はかど)らせ、神を強制し、出現させ、守護させ、言いつけを聞かせるといったこと。未来を自分の意のままに整えること、自分の魂を何らかの過剰(不安、狂気、同情、復讐欲など)から解放すること、しかも自分の魂だけでなく、最も邪悪な悪鬼の魂さえも解放すること――こうしたすべてのことを韻律が可能にした。詩歌がなければ人間は無であった。詩歌によって人間は、神と肩を並べるほどになったのだ」。なんだか古今和歌集の仮名序のようになってきた。けれどこの本からは、「神の死」を説くニーチェのみならず、愛するヴェネチアの景物を詩に詠い、夜ごとピアノに向かってショパンを奏でたニーチェの、それこそ木漏れ日のようにやさしい音楽を聴きとることができるように、僕は思うのである。