第6章 ほんの少しだけ大笑い Beatrix Fife “Bix” テープレコーダー (日本語) 2019.05.07 今度は、穏やかな修道女たちが運営する新しい学校に行くことになった。ローマにいたときのような学校だ。当時の私は、フランス語を話そうとすると、ついイタリア語を使ってしまっていた。言おうとしていることを少しでもわかってもらいたいと思ったからだろう。ある日、同じクラスの少女が、フランス語の「r」をどう発音するかを教えてくれた。フランセース(Frances)という名で、両親はイギリスの出身だ。私たちは二人とも英語がわかったけれど、フランス語で話をする。他の子たちも先生たちも、みんなフランス語で話しているからだ。彼女の名が「フランス出身」という意味だということも、彼女のお母さんがそれを英語風に「フランシス」と発音するのも面白いと思った。一方、学校では誰もが彼女を「フランセース」と呼んでいた。フランス語に特有な「r」の発音を使い、「アン(an)」と鼻にぬける音を出し、最後の「エ(e)」の部分は少し長くのばすのだ。 この学校では、生徒は全員、ネイヴィー・ブルーと白の制服を着ている。担任の先生は黒い修道着と、黒と白のヴェールをつけていて、その下にいくらか白髪が見えた。肌は黄色味がかって、しわがたくさんあり、分厚いレンズの眼鏡をかけている。名前はマダム・ラヴァレリーといった。よく一緒に遊んだのは、フランセースとヴァレリーという名の女の子で、三人でよく大笑いした。ほかの子たちも、私たちと一緒になって笑うことがしばしばあった。この「笑い」が私たちみんなを近づけてくれた気がする。新しい友達をつくるための扉を開ける小さな鍵のようなのだ。教室の隣の席にはヴァレリーが座っていたが、彼女は実に自由奔放で、言いたいことを何でも言うし、大人たちに何かを答えるときも、まるでずっと歳上であるかのような受け答えをする。そして私には、これがフランス流のやり方なのだという感じがした。彼女は私に、何かと「ばかげたこと」をさせようとしたものだ。フランス語では「bêtises (ベティズ)」と言うその言葉が、「子どもが言ったりしたりするばかげたこと」を意味することを私に教えてくれたのは彼女だ。彼女はまた、小さな香水瓶の美しいコレクションを見せてくれた。あまりにも素敵だったので、私は思わず身震いし、すっかり魅了されてしまった。ヴァレリーと、そのヴァレリーの名によく似たマダム・ラヴァレリー、そしてフランセース。この三人の名前は、私の頭の中で互いに結びつけられている。ちょうど3つの豆電球がふっと一緒に灯るかのように。教室では、私はしょっちゅう質問をした。何か間違ったことを言うと、他の子たちが笑い、マダム・ラヴァレリーが私の誤りを直してくれる。そんなふうに注目を浴びながら、私は私自身のやり方で少しずつ自信をもつようになり、新しい言葉を使うことにも慣れ始めたのだった。 遊戯の時間 ある日の午前中、マダム・ラヴァレリーから、前に出て演習問題の答えを黒板に書くように言われた。教室の一番前へと歩いていくと、ほかの子たちが笑い出す。問題にどう対処していいかわからなかった私は、笑いさざめく子どもたちの前でおかしな顔の表情をつくり始めたのだが、それがマダム・ラヴァレリーをひどく怒らせてしまった。おしりをピシャリと叩かれた私は、頭をたれて席へと戻る。クラス全員がシンとなった。泣くまいとこらえたけれど、色々な思いが頭の中をぐるぐる回っていた。 また別の日のこと、フランスに来てから初めて誕生日パーティに招待された。お母さんの助けを借りて、その招待状への返事を大喜びで書いた。パーティは水曜日で、お母さんに車で送ってもらう。エレベーターと長い通路。プレゼントを手にした私は、新しいスカートをはいている。チャイムを鳴らすと、ドアの向こうから子どもたちの声が聞こえてきた。ドアをあけてくれた子たちが私を見るやいなや、いっせいに叫んだ。 「ほら、道化者が来た!」 これが、みんなが私を招待した理由だったのだ。おおかた、私が話すときにおかすおかしな間違いが笑えるからということなのだろう。私のことが好きだから呼んでくれたのではなかったと思うと、悲しくなる。数か月前にバレエの教室で女の子たちに笑われたことが思い出されたが、今度もまた心の奥底に留め、お母さんには何も話さないことに決めた。これが家の外での私の生活だった。家の中と外は、言語によって分けられているのだ。 修道女であるマダム・ラヴァレリーは、私たちにイエスさま、マリアさま、そして聖人たちのことを教えてくれた。祈りの言葉はローマのときと同じだったけれど、ただフランス語で唱えねばならない。私は、イタリア語とフランス語の二つの言語を比べてみるようになった。たとえば同じ祈りの言葉でも、イタリア語では「ひとつの空」と単数で言うところを、フランス語では「たくさんの空」と複数で言うといったふうに分析をするわけだ。また、イタリア語では、主語はときには動詞の後ろにきたり、あるいはなくなったりするのだけれど、フランス語の主語は通常は動詞の前に置かれる。私は文法が好きになり始めた。まるでゲームのように感じられたのだ。そしてマダム・ラヴァレリーもこれを喜んでくれた。でもおそらく彼女は、私がフランス語とイタリア語という二つの言語を分解し、比較しているということには気づいていなかっただろう。 イタリアにて、兄弟姉妹とお父さん 家で両親や兄弟や妹と話すときに使うのはノルウェー語だ。両親は、家族の言葉をノルウェー語にすること、そしてほかのすべての言語をきちんと使い分けることを決めていた。ただ、別の言葉を話す誰かに会って話しかけられたときは例外だ。友達といるときや学校、宿題、お祈り、買い物、そして外出するときは、ローマではイタリア語を使っていたし、パリにいる今はすべてがフランス語になる。ノルウェー語は特別な秘密の言語、イメージと音声からなる一つのシステムとなりつつあった。ノウウェー語と英語は両親の母国語であり、私はこの二つの言葉をそういうものとして大切にしていたが、友達や学校と結びつく言葉は、イタリア語からフランス語へと変わっていった。もちろん、ときどきに応じてフランス語や英語、あるいはイタリア語やノルウェー語を使ったし、誰かが家に来ると、その相手の言葉に合わせなくてはいけない。こうして言葉を切り替えるというプロセスは、ごく普通の行為となった。やがて改めて気づいたのは、お父さんの話すフランス語とノルウェー語には少し違ったところがあり、英語とイタリア語の言葉のほうをずっとよく知っているらしいということだった。夕食の席では、お父さんのおかしな話や冗談にみんなで大笑いしたものだ。お母さんはしょっちゅう「ばかなことを言わないで!」と言っていた。例の「子どもが言ったりしたりするばかげたこと」を大人がしてもいいのだということが、これでわかった。なぜって、お父さんだってしているのだから。 ある日、フランセースがイランに引っ越すことになった。お父さんの転勤のためだが、突然出発してしまったため、私たちはお別れを言うこともできなかった。それから何週間もの間、彼女の笑い声が聞こえないことをひどく寂しく思い、胸が痛んだ。それと同時に、ローマから引っ越す私がさよならを言ったときの、幼なじみのヴェロニカの暗い瞳が思い出されて泣いてしまった。 でも、ヴァレリーと私は変わることなく一緒に遊んだ。彼女はほかの人たちと違ったことをすることも、危険を冒すことも怖れない。そして、それはまさに私が新しい生活の中で、新しい言葉を使いながら日々していることだった。私の家からそう遠くないところに住んでいた彼女は、ずっとその家で育ち、これからもそこで暮らすはずだと言う。私は、自分のこの新しい家の近くでもっと大勢の友達をつくろうと心に決めた。私が二度と別れることのない、そして私から決して離れていかない友達を。 自分が毎日歩みを続けている場所を、私はますます心の奥底で意識するようになった。この場所は、私が習っている言語と同じぐらい重要になりつつあったのだ。風船を飛ばすまいと、その風船につけられた糸をしっかりつかんでいるように、私はその場所に立っていた。鳥の歌声、街から聞こえる様々な音、私の周りの人々の声、吹き渡る風、庭に置いた小さなテントの人形の家、そうしたものすべてが私の生活を包んでおり、またそれと同時に、私自身の内と外で、そして私の周りで、私の耳と口を通して、フランス語のたくさんの言葉が行き交っている。 私のその新しい言語が属しているこの場所に、少しずつ私自身のものとなり始めているこの場所に、私は根をはりつつあったのだ。 兄と弟と一緒に、人形の家のテントの中で