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第10回 街を撮る写真家が無意識にボヴァリー夫人

新納 翔(にいろ・しょう)

2016.06.02

 ここ数年で出版した作品は主に、東京北部のドヤ街山谷と移転に揺れる築地市場を扱ったものである。それと並行して国道1号線の風景や再開発都市の移ろいを写真に収めてきたが、仮にそれらが評価されるとしても遠い先の話だろう。それは写真が1メディアとしての存在する以上、世の中の動きとニーズが密接に関係しているがゆえに即時性のあるタイムリーな話題の方が受け入れられやすいという特性の問題であると考えている。

 この世界に存在する景色は二種類ある。1つは今年の11月に解体される築地市場のように確実に終わりが見えている、いわば未来のある一点でその歴史が途切れることが決まっている不連続な景色。そしてもう1つは山谷のように江戸時代から300年に渡って徐々に形成され、肉体労働者の街としての時代を経て、現在徐々に高層マンションに侵食され違う街になっていく連続した景色。山谷=肉体労働者の街という図式は、歴史という大きな観点から見れば南千住という街が通り過ぎた一時的な側面に過ぎないのだ。

 写真が持つ記録性こそがその本質だと信じていれば、そう二分されるのは当然のことなのかもしれない。街の歴史に写真家が迷い込み個々の直感からシャッターを切っていく、それが自分のような都市風景を切り撮る写真家のあり方なのだろうと思う。ただ必要なのは己の研ぎ澄まされたアンテナだけである。

 街を撮る写真家に求められるのは、一番いいタイミングで的確な方向から被写体を発見することに尽きる。少し遠回りした結果偶然街の人と触れ合うことができた、というのは実のところアンテナのおかげで自分でも知らぬうちに時間調整していただけのことなのだ。

 よく山谷や築地を撮り始めるにあたり何がきっかけだったのかと問われることがある。貧困の是正、移転問題の真相、自分はそんな偉そうなことは何一つない。ただ、共通して言えるのは言葉にできぬほどの強い声をアンテナがキャッチしたということだ。

 2013年ごろだったか、築地市場を仕事の撮影で訪れていた私は、ふと山谷でそれより7,8年前に感じた得も知れぬ強烈な感覚に襲われた。「これはあの時と同じだ、自分はここを撮らねばならないんだ」、その感覚の正体が何なのかは当時はさっぱり分からなかった。しかし居ても立ってもいられず、近くにいた警備員の方に声をかけてその警備会社に就職することになったのだ。

 少し前に三島由紀夫賞を受賞した元東大総長の蓮實重彦氏が「迷惑な話だ。選者の暴挙だ」という趣旨の発言が話題になったが、氏のおっしゃる「(自分が書きたいどうのではなく)小説がやってくる」、という発言は多いに共感する事が多い。

 前々から自分も被写体に出会うのではなく、被写体がやってくると常々思っていた。ゆえに築地で感じた衝動も、築地市場からの訴えがけのようなものなのだろうと捉えていた。山谷にしろ築地にしろ別段撮りたいと思って始めたものではない。なんせ山谷、築地ともにそこで働き出して三ヶ月はとりあえず撮れと言われたから撮っている程度でしかなかった、なんせこれという興味がなかったからだ。

 蓮實氏に対して受賞の辞退という選択をしなかったことを批判する人もいるが、氏のもとにやってきた小説を代筆したという感覚なのだから辞退なんて選択権を蓮實氏は持ち合わせていないという考えなのだろうと自分は思った次第である。

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新納 翔(にいろ・しょう)
新納 翔(にいろ・しょう) プロフィール

1982年横浜生まれ。 麻布学園卒、早稲田大学理工学部にて宇宙物理学専攻するも奈良原一高氏の作品に衝撃を受け、5年次中退、そのまま写真の道を志す。2009年より中藤毅彦氏が代表をつとめる新宿四ツ谷の自主ギャラリー「ニエプス」でメンバーとして2年間活動。以後、川崎市市民ミュージアムで講師を務めるなどしながら、消えゆく都市をテーマに東京を拠点として撮影を続け現在に至る。新潮社にて写真都市論の連載「東京デストロイ・マッピング」を持つなど、執筆活動も精力的に行なっている。写真集『PEELING CITY』を2017年ふげん社より刊行。