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第11回 写真家とSNS / 写真の著作権を放棄せよ

新納 翔(にいろ・しょう)

2016.07.05

 いまや「写真家とSNS」というものは切っても切れない関係になってきた。今まで写真集や個展などで使用予定の写真、または過去に使用した写真はアップせず、いわゆる「没写真」だけをアップする風潮が強かった。しかしそれも時代遅れなのかもしれない。写真家は撮影はもとより、「魅せる」部分まで責任を持たなければならないとすれば、SNSを軽視するのは以ての外である。

 マグナムのブルース・ギルデン氏のInstagramアカウントが出来た時には驚いたが、携帯の画面の中で氏の作品を見ても何ら変わらず凄みがある。単純に良い物はいい、簡単な話なのだ。

 ここ数週間Instagramを改めて見てみると、余計なしがらみにとらわれることなく写真を発表できるアマチュアの方が上手くSNSを使っている気がする。写真という唯一の共通項だけが存在し、国境など存在しない「Instagram」が育ててくれたプラットフォームは、いつの間にか写真を見せる場として非常に有益な場所になっていた。

 私は近い将来、活字離れが進むこの社会で、Twitterですら画像だけに集約されInstagramのような画像メインのSNSに飲み込まれていくような気がしてならない。少なくともスマートフォンにおいて、「読む」時代から「見る」時代へとシフトしていくのはしごく当然の流れだと感じる。

 うだるように暑い異常な天候の中、一人写真を撮りながらそんなことを考えながら国道1号線を歩いている。直射日光からの逃げ場の無い中、意識が朦朧とする中でふと、2008年、自分のブログに「web写真は危ない」というエントリーを書いたことを思い出した。

 当時は、デジタルカメラが徐々に浸透しはじめていたが、各種写真雑誌でもまだ「デジタルは写真か?」といった野暮な議論が収束していなかったような時代だったと記憶する。

 

写真家みたいに個展を開き、紙の上にあるものこそが写真だ!なんて言えばいいのだけど、それでも勝手にデータを使われたらいい気はしない。写真の盗撮である!web写真は危険だ、それは写真の一部所有権の放棄に他ならないからだ。デジカメのおかげでどういう形であれ写真人口が増え、自分の写真を気軽に公開できるようになったのはいい事だとはおもうが、写真を撮った以上それに対しての責任があるということは忘れてはならない。現状が維持されるならば、写真という媒体自体の質はどんどん定下していってしまうだろう。(原文ママ)

 

 このエントリーは予想外にもかなり荒れてしまい、某巨大掲示板にまでスレッドがたってしまった。だが、言い換えればそれだけインターネットとデジタルデータの扱いがまだまだデリケートな問題として意識する人が多かったということを示唆していたのだろうか。当時出始めであった「fotologue」に代表される写真に特化した共有サービス等において、無断コピーや盗用の防止を問題視する声は多かった。

 私がブロクで語ったことは、アップする側自体も防護策を取るのは当然の務めであり、完全にコピーを防止することはできない、そういうことは覚悟すべきだ、ということである。

 しかしである。2016年現在、私は一度このウェブという大海原にアップしたものについては著作権の放棄をせよというスタンスに変わっている。盗用に関する問題は各個人の倫理感に委ねるとして、ウェブ上における写真保護の状況はなんら改善はされていない。

 透かしを入れたりテキストを入れたりと、コピーをするナというメッセージのこめられた写真画像は今だによく目にするが、どこか時代錯誤な感覚を抱いてしまう。もちろん撮影データの著作権は通常撮影者にある、それは保護されてしかるべきなのは当然だ。勝手に保存されたくないという気持ちもわかる。ただ冒頭で述べたように、それはSNSを軽視する姿勢でしか無いように感じるのだ。

 一度ウェブという不特定多数のユーザーに向かって写真を投じると決断した時、それ相応のリスクを覚悟すべきなのだ。そんなことに杞憂するのであれば、いっそ著作権など放棄するくらいの気概でいたほうがよほど良い。

 こう書いている間にも掃いて捨てるほどの画像がSNSにばらまかれている。本当にどうでもいい「写真」ともいえぬ、「画像データ」が垂れ流されている。私から言わせれば、盗用云々よりもそのような目も当てられない下手くそな写真をばらまくほうがよほど立ちが悪いと思う。ある意味そんなものは猥褻物陳列罪に値する。

 そんな中、盗用されるに値するもの、第三者がその価値を認めその使用することになんらかの利潤があると考える写真はどれほどあるのだろうか。自分が見ていてもそんな写真にでくわす機会は年に1回でもあればいいほどだ。それでも盗用されたとしたら、たいしたものである。

 私も盗用された経験はあるが、自分としてはオリジナルプリントにしてはじめて自分の作品であると思っているし、何より盗用されたところでそれを見た第三者が明らかに「これは〇〇さんの作風だ」となれば大したものではないか。「本物」を盗むことは非常に難しいのだ。

 芸能人が週刊誌にフラッシュされた一人前というのと同じ理屈だ。

 私は様々なSNSに写真をアップしているが、それが勝手にコピーされたり保存されたりするのは自由だと思っている。それは自分がプリントのためにレタッチをし、何度も色調整しながら最終的に出した一点のプリントとは比較になるものではないという自負があるからだ。

 おそらく某SNSには2000pxほどのサイズでアップしているので、A4サイズであれば問題なくプリントできるだろう。それに一部をイラストに使用したりして違う作品に仕上げることも可能だろう。そんなのは好き勝手にやってくれて構わない、むしろウェルカムである。

 一度考えてみて欲しい。写真たるは我々が無許可に、カメラという魔法の機械でもって本来あるべき場所から景色を勝手に盗んできたものであるということを。盗品を盗まれたと主張することのナンセンスさを。この地球上に被写体になるべくそこにあるものなど存在しえないのだ。

 

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新納 翔(にいろ・しょう)
新納 翔(にいろ・しょう) プロフィール

1982年横浜生まれ。 麻布学園卒、早稲田大学理工学部にて宇宙物理学専攻するも奈良原一高氏の作品に衝撃を受け、5年次中退、そのまま写真の道を志す。2009年より中藤毅彦氏が代表をつとめる新宿四ツ谷の自主ギャラリー「ニエプス」でメンバーとして2年間活動。以後、川崎市市民ミュージアムで講師を務めるなどしながら、消えゆく都市をテーマに東京を拠点として撮影を続け現在に至る。新潮社にて写真都市論の連載「東京デストロイ・マッピング」を持つなど、執筆活動も精力的に行なっている。写真集『PEELING CITY』を2017年ふげん社より刊行。