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第3回 スナップに偽善は不要、街は狂気で溢れている - これだけは守っている5ツの事

新納 翔(にいろ・しょう)

2015.10.30

雨がやんだ後のアスファルトの独特な匂い、特に夜、街灯がぽつり寂しく佇む道によく似合う。まさに都市にこびりつた垢がうごめいているようで、これを映像化すればその都市の本質を浮かび上がらせることができるのではと考えた。10年前。66の中判カメラを地面と垂直にセットし、長時間露光で撮影した。なかなかいい写真が撮れたのだが、なんせ雨上がりの夜という条件、なかなか思うように撮影は進まない。あまりにも雨が振らないものだから、バケツで水をぶちまけて撮ったら全く同じ様な写真が撮れてなんだか馬鹿馬鹿しくなってやめたことがある。

最近、ストリートスナップはどうやるのか、どうしたら撮れるようになるのかという禅問答に似た質問を受けることが多くなった。地球の上の重力場に縛られている限り、全てのものがストリートスナップの延長のように思うのだが、撮影していると頭の中で色々思考作業を始めてしまう。反論もあるとは思うが、この場を借りて私が普段思っていることをTips的に素直に書いてみようと思う。

 

■カメラで撮るのはやめよ

カメラが自動化した今、とにかく押せば写る時代。私には写真行為を最終目的にしていながら古いアナログカメラをわざわざ使うのが理解できない。ずっとその手法でやってきたり、銀塩プリントが最もその撮影者の意図を反映できるのであれば多いに納得できる。そうでないとしたら、意味もなく腕に10キロの重しをつけてカメラを操作しているのとなんら変わらない。

写真は風景のスキャンであり、自分の視線と被写体との間にカメラを介在させればいいだけだ。撮りたいと思ったら、その視線の間にカメラを運ぶ、実に単純な作業である。ゆえに写真はカメラで撮るものではない、少なくとも本質的には。人間の目がそういう点で進化してこなかったから、カメラなる技術を間借りしているようなものだと考えたほうがしっくり来る。

■ホームレスを撮るな

山谷を長く撮っていた身としてはよく、日頃からホームレスの方を被写体にしているように誤解されるがちであるが、普段の街中においてはなるべく撮らないようにしている。ドヤ街ならいざ知れず、撮られたくないであろう被写体を撮影し、いかにも作品ぽいものだと第三者に見せることに抵抗を感じるのだ。人を撮るというのは、その人の人生を一瞬でも背負う覚悟がなくてはならない。ストリートスナップといえば聞こえがいいが、盗撮ではないのかといえば何も言えないのも事実だ。ゆえにせめて相手に気づかれないぐらいの偽善的な配慮をするくらいはしたいものである。

被写体に依存するような写真は、そこにあざとい意図が見え隠れして却って気持ちが悪い。そして結果誰も特をしない。おそらくホームレスを撮影するという行為自体、彼らを自分とは違うカテゴリーの人種であるという認識の現れのように感じる。もっと、日常の闇のほうが深いものだ。小手先のだましの絵で済むほど写真は薄っぺらいものではない。

 

■プリントのために

私の写真は情報主義、どれだけ画面内に情報があるかという事に重きをおいている。同じ面積であれば「記録する写真家」として、情報は多いにこしたことはないというわけだ。画面内をごちゃつかせろというのではない、別段闇が広がっていてもそこから喚起される情報があればそれでいい。こう考えろというのではない。何かしら芯になる意図を持っているのと持っていないとではセレクトする際など、大きな差がでるということある。そして自分の色を持つべきである。ゆえに、撮って出しでどうのこうのというとは、レストランに入ってレトルトをだされるようなものだ。

その色を出すために露出はどうすればいいのか、アンダーかハイキーか。どのカメラなら、どのレンズならそれが再現できるのか。プリントする紙は何をえらぶべきか。つまり最終的にどういうアウトプットにしたいかという所から逆算していけば自ずと答えは出るのである。

■過ぎ去った景色を拾うな

被写体は向こうからやってくるものだ。物理的にこちらから近づいたとしても、「出会い」というものは決して一方通行ではない。ゆえにお互いの出会いは波長のクロスポイントである。それをシャッターチャンスともいうのであろう。ゆえにその交差した瞬間を過ぎてしまってからいくら風景を後追いしたところで決して捉えることはできないのだ。

肩越しに見えたなんとなくよさそうな景色があったとしても、その瞬間を通り過ぎてしまった以上、振り返らない。仮にカメラを向けてもそういう場合はミスショットに終わるだけである。

決定的瞬間などないのだ。それは捉え方の問題であって、その瞬間は確実に訪れる、そして撮られるべくして撮られたに過ぎない。それを左右するのは写真家の頭脳、研ぎ澄まされたアンテナなのだろう。

 

 

写真について考える時間はなぜか写真を撮っているときなのである。目の前の風景を見ながら頭では全く別の事を考えている。自分が1時間写真を撮っていても、実際に撮っているのはおよそ10分程度だと思う。自分で言うところの「写真の目」になるのは、ほんの束の間なのだ、いわば「トランス状態」のようなもの。その時だけは急にアンテナの感度が増し、街にただよう気配に妙に敏感になることができる。自分でもそれがいつ来るかは分からない。言ってみればそれ以外の時間はただの徘徊者なわけで、そんな具合で街を撮っているというのが正直なところではあるが、これらのTipsもなにかの参考になれば幸いである。

 

 

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新納 翔(にいろ・しょう)
新納 翔(にいろ・しょう) プロフィール

1982年横浜生まれ。 麻布学園卒、早稲田大学理工学部にて宇宙物理学専攻するも奈良原一高氏の作品に衝撃を受け、5年次中退、そのまま写真の道を志す。2009年より中藤毅彦氏が代表をつとめる新宿四ツ谷の自主ギャラリー「ニエプス」でメンバーとして2年間活動。以後、川崎市市民ミュージアムで講師を務めるなどしながら、消えゆく都市をテーマに東京を拠点として撮影を続け現在に至る。新潮社にて写真都市論の連載「東京デストロイ・マッピング」を持つなど、執筆活動も精力的に行なっている。写真集『PEELING CITY』を2017年ふげん社より刊行。