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第3回 劇的人間(ホモ・ドラマティクス)と劇場型人間(ホモ・テアトリクス)

吉田 隼人(よしだ・はやと)

2015.01.30

三島由紀夫はどこからでも読み解ける。およそどの作品、どのキイ・タームを手掛かりにしても、それらしい三島論がでっちあげられるだろう。読書感想文や卒業論文を書くのにこれほど便利な作家は他にないのではないかとさえ思われる。しかしそうして得られる解答はみな三島の仕掛けた罠に過ぎず、三島について何か書いてしまった瞬間から、僕たちはまんまと三島の掌で踊らされた一人として数えられることになる。あるいは三島自身も、自分で仕掛けた罠に引っ掛かっていた節がなくもない。……それが意図的なものにせよ、意図せざるものにせよ。

たとえば十七歳の僕は三島由紀夫をどう読んでいたか。「文化」から遠く隔たった田舎町に住んでいても、書店を巡れば三島の主要な著作は新潮文庫で揃えることができたし、エッセイや書簡集なども文庫本で比較的容易に入手することができた。あの頃の僕のパンパンに膨れ上がった通学鞄には、教科書や参考書、問題集やノートに紛れて、三島の文庫本が一冊か二冊は必ずと言っていいほど入っていた。大雪で遅延した暖房の効いた通学電車の座席に腰掛けて、夢中で『仮面の告白』(新潮文庫)の極彩色の文章に読み耽ったのも十七歳の思い出なら、水泳の授業を終えてプールの塩素臭と初夏の日光が充満する教室の片隅で、皮肉っぽいユーモアに口許をゆるめながら「おわりの美学」(『行動学入門』文春文庫)や『不道徳教育講座』(角川文庫)を軽く読み飛ばしたのも十七歳の思い出である。

そんな「十七歳の思い出」の中でもひときわ強烈だったのは、あまり共感できないまま読んだ『憂国』(新潮文庫)だった。三島自身が自分の謎を解き明かす鍵として挙げたこの短篇を、およそ御多分に漏れず、あの「自決」の謎解きをするつもりで僕も読んでみたのだけれど、これといった面白味も感じられなかった。最後の一行まで気配りの行き届いた三島の短篇にしては「憂国」は、最後に夫の後を追って自決する将校の妻の描写があまりにも薄味で、どうもあまり成功した作品とは言えないのではないかと思わないでもなかった。それでも、一つには「憂国」がわからないようでは三島の読者として失格ではないかという焦りから、今一つには「憂国」のような危険思想の匂いがする本を読んでいる自分を誇示したいという少年らしい虚栄心から、僕はそのころ学校新聞にもっていた文芸評論の連載にこの『憂国』を取り上げて、原稿用紙で五枚かそこらのエッセイを載せた。

この「憂国」論は効果テキメンであった。自分の席に行儀よく座って数学の問題集などやっていると、他のクラスや上の学年からませた生徒がちらほら僕に青臭い議論を吹っ掛けに来たし、授業のたびに色々な先生から反応があった。それまで僕の文学少年ぶりを買ってくれていた世界史の先生は「吉田君はああいう思想に共感するのか?」と失望の色を隠さなかったし、逆に左翼嫌いの現代国語の先生は、授業時間の一部を費やして『英靈の聲』論を一席ぶってくれた。「右翼だか左翼だかわからんがお前の態度はけしからん」とバスケの授業をサボッたのを叱ってきたのは体育の先生で、「思想云々でなく、吉田はあくまで文学として読んでるんだもんな」と擁護してくれたのは飄々とした日本史の先生で、「あれだけの文章を書けるのだから是非とも東大を目指しなさい」とよくわからない激励の言葉をくれたのは書道のおじいちゃん先生で、「なんか悩みでもあるのか?」と心配して新聞部の部室を訪ねてきたのはまだ二十代の数学の先生だった。そしてとどめのように、そのころ前の席に座っていたクラスメイトの某君は「ああいう思想に入れ込むのは君のためにならないと思うんだ、それより……」といって、某新興宗教の書籍を広げて僕を説得し出したのだった(彼は大学へ行かず、布教の道に進んだとのちに噂で聞いた)。

これだけ反響を呼んだ僕の「憂国」論とは、ではどんなものであったかといえば、今から思えばごくごく穏当な、つまらない解釈でしかなかった。三島は小説家というより戯曲作家、プレイライトだった、という開高健か誰かの見解をとっかかりに、ちょうどそのころ普及しだした動画サイトで自作自演の映画版「憂国」を見た感想と併せて、自己の死を一個のドラマと化したいという欲求が「憂国」の再演としての自決を導いた、というのがその趣旨である。性的嗜好も政治思想も、つまるところお芝居の彩りや味付けに過ぎず、三島の死と「憂国」に代表される文業とを貫くのは「演劇性への意志」とでもいうものだった、というわけだ。三つ子の魂なんとやらで、今でも僕の三島由紀夫観はこのときのそれを逸脱することなく、むしろその延長線上にあるといっていい。

演劇とか演劇的とかいう言葉をたとえば英語に直すとしたら、drama-dramaticとtheatre-theatricalの二つの系列がある。語源をたどると、前者は「行動」「行為」を意味する古代ギリシャ語ドラーマーに由来し、後者は同じ古代ギリシャ語でも「見る」に相当するテオーレインから派生した言葉らしい。ドラマが舞台上での役者自身の行為を指すのに対して、シアターはその役者に注がれる無数の視線が交錯することによって形成される「場」すなわち劇場といった含みがある。同じ「演劇的人間」でも、行動に重きを置く場合をhomo dramaticus「劇的人間」、見る/見られることに重きを置く場合をhomo theatricus「劇場型人間」などと、少し恰好を付けてラテン語で呼んでみてもいい。このあたりのことを僕はバタイユにおける「演劇」の主題系を扱った修士論文を書いているときに調べたり考えたりしたのだけれど(この修士論文については簡単なブックガイドも兼ねていつかこの連載で書くつもりでいる)、さてこの二つの分類を三島にあてはめてみるとどうだろうか。

自衛隊への体験入隊、楯の会の結成、そして壮絶な自決……と、一見するとある時期以降の三島は行動の人、すなわち「劇的人間(ホモ・ドラマティクス)」に分類されるように見えるかも知れない。しかし彼の行動が常に誰かの視線に晒されることを前提としていたことを忘れるわけにはいかないだろう。「右の人」としての彼の「行動(アクト)」はおよそ総じて、映画「からっ風野郎」でヤクザの二代目を演じたときの「演技(アクト)」と大差ない、いささか悪趣味な素人芝居のように僕の目には映る。楯の会の制服があれだけ見栄えを重視して作られたのも、彼の最期が市ヶ谷の自衛隊の、たくさんの隊員の視線に晒されたバルコニーという舞台を必要としたのも、三島由紀夫という人が「見る/見られる」ことにこだわっていたことの証左ではあるまいか。リアルタイムでテレビに報じられた彼の最期は、のちに「劇場型犯罪」と呼ばれたそれと極めて近いところにある。ドラマの語源が「行為」であるにも関わらず、行為は誰かの視線に晒され(ることを意識せ)ねば「演劇」として成立しないという点で、三島由紀夫は「劇場型人間(ホモ・テアトリクス)」に分類されるべきであるように、僕には思われる。「憂国」における主人公の自決は妻によって見届けられねばならなかったし(逆に言えば、その妻の自決がやたら薄味な描写で終わっているのは誰からも見られない死だったからだ)、その原型となったゲイSM小説「愛の処刑」(榊山保の偽名で発表)もやはり筋骨隆々たる教師が酷薄な教え子の少年に見守られながら自決を迫られるという構図を持っていた。

さらに僕の個人的な趣味で言えば、三島由紀夫の最高傑作にして事実上の処女作は、戦中戦後を通して半ば遺書のようなつもりで書かれた「岬にての物語」(『岬にての物語』新潮文庫)だと思うのだけれど、この美しい男女の心中に遭遇してしまう少年の物語は、三島自身の幼年期に擬せられたその少年が彼らの死を目撃しそこなった――少年が目を隠してかくれんぼの鬼をしているうちに男女は海に飛び込んでしまう――という点で、やはりホモ・テアトリクスとしての三島の出発点にふさわしい作品であるように思う。戦争において遂げられるはずだった演劇的な死が不幸にも挫折したという三島自身の経験と、少年が男女の死の瞬間を見逃してしまうというこの物語の不全感とは恐らく同根のもので、死を見届けることができなかった少年が自分の死こそは大勢の視線に晒されて迎えたい望む、この不全感の代替的充足への渇望こそが戦後の三島由紀夫のシアトリカルな生き様・死に様を準備したのだと、僕などは考える。(ついでに付け加えておけば、同じ短編集『岬にての物語』に収録された「月澹荘綺譚」という陰惨でグロテスクな短篇は、三島における「見ることと見られること」を死とエロスとの関係において考える上で絶好の題材である。)あるいは、三月にこの「ふげん社」で展示される、三島自身が被写体となった写真集『薔薇刑』のオリジナル・プリントもまた、この「見る/見られる」とか「ホモ・テアトリクス」といった視点から見ることで、一つの解釈を与えられるだろう。写真の被写体という「見られる側」にあるはずの三島はときに恐るべき眼力でもって、本来「見る側」にあるはずの僕たち鑑賞者を逆に「見られる側」へと変貌させてしまうようですらある……。

とはいえ、最初に断ったように、こうした解釈を披歴した時点で既に、僕は三島の罠にかかってしまっているには違いない。自分では唯一の正しい解釈のような気がしていても(実際、十七歳の僕はそう信じていた)、それは三島由紀夫というどこからでも読み解くことのできる奇怪なパズルを、自分の好みの角度から切り込んで解いてみた、というに過ぎないのである。まったく逆の角度から切り込んでも、やはりそれはそれで首尾一貫した「三島由紀夫」論が出来上がるだろうと思う。とはいえ、もちろんそれもその人の好みを反映した読みの一つにすぎないわけで、百人が百通りの読み方をしたところでそこに見出すのは(陳腐な比喩だが)三島由紀夫という鏡に映った自分の姿でしかないのは言うまでもない。三島について書くのは、いつも壮大な徒労という感が付きまとう。

徒労ついでにもう一つだけ、十七歳の僕が学校新聞に書いた「憂国」論の反響のうち、今まで忘れていた一挿話を書き添えておしまいにしよう。この稚拙な三島論にいちばん感銘を受け、惜しみない賞賛の声をかけてくれたのは友達でも先生でもなく、この年の秋、県内の高校新聞部の合同勉強会で一緒の班になった同い年の少女だった。

私は理科系で、あまり文学には詳しくないけれど……と予防線を張りつつ僕の文章を仔細に読み込んで意見をくれた彼女とは、その大会の終わり際に連絡先を交換し、電話やメールの遣り取りをする仲になった。美人とは言えないけれど、明るい性格で愛嬌のある丸顔をしたこの彼女に僕は確かに好意を抱いていたし、今となってはあれが自分の初恋というやつだったのだというふうに振り返ってみることもできる。もっとも向こうは同じ県内でも遠く離れた会津の高校に通っていたから、なかなか直接顔を合わせるというわけにもいかない。メールや電話だけの初々しい関係が続いていた翌年、その彼女のいる会津で、高校生が母親を殺害し、生首を鞄に入れて交番に出頭するという、これもまたいささか演劇的(シアトリカル)な事件が起きた。放課後、すぐに電話した。自分では彼女のことを心配しているつもりでいたのだが、相手には僕が興味本位で事件のことをあれこれ聞き立ててきたように思われたのだろう。なまじ出会いのきっかけが三島由紀夫の、それも「憂国」だったのがいけなかったのかも知れない。身近に事件が起こってナーバスになっていた彼女は機嫌を損ね、僕は僕で心配して電話してやったのに何だと腹を立て、それっきり、お互いに連絡を取り合うことはなくなってしまった。

こうして僕が初恋に破れたのも三島の罠……などと戯作めいたオチをつけてしまうのは流石にこの大作家に対して無礼千万だけれども、どうもこうした事情もあって、三島由紀夫は僕にとって個人的にも思い入れの強い、しかしそれゆえ語るのを拒みたくなってしまうといういたく複雑な位置づけの作家として、その著書をして実家の勉強部屋で書架の一隅を占めているのである。

吉田 隼人(よしだ・はやと)
吉田 隼人(よしだ・はやと) プロフィール

1989年4月25日、福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)に生まれる。
町立の小中学校、県立福島高校を経て、2012年3月に早稲田大学文化構想学部(表象・メディア論系)卒業。

2014年3月、早稲田大学大学院文学研究科(フランス語フランス文学コース)修士課程を修了。修士論文「ジョルジュ・バタイユにおけるテクストの演劇的=パロディ的位相」。現在は博士後期課程に在学。

中学時代より独学で作歌を始め、2006年に福島県文学賞(青少年・短歌の部/俳句の部)、2007年に全国高校文芸コンクール優秀賞(短歌の部)をそれぞれ受賞。

2008年、大学進学と同時に早稲田短歌会に入会。「早稲田短歌」「率」などに作品や評論を発表。

2012年、「砂糖と亡霊」50首で第58回角川短歌賞候補。

2013年に「忘却のための試論」50首で第59回角川短歌賞を受賞。早稲田短歌会ほかを経て、現在無所属。
「現代詩手帖」2014年1月号から2015年12月号まで短歌時評を連載。「コミュニケーションギャラリー ふげん社」ホームページに2014年11月からエッセイ「書物への旅」を連載。

2015年12月、歌集「忘却のための試論」を書肆侃々房より刊行。2016年、同著で3月に2015年度小野梓記念芸術賞受賞、4月に第60回現代歌人協会賞を受賞。