第5回 美とは虚無のまたの名――定家の人外境 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2015.03.30 このあいだ大学そばの古書店街を巡っていて、古びた岩波文庫の棚に佐佐木信綱校訂『藤原定家歌集』(1931年初版)を見かけた。300円という値段を見るか見ないか、ほとんど反射的にこの本をレジに持っていっている自分に気が付いた。新古今時代を代表する歌人・藤原定家の家集『拾遺愚草』には後年に出たさらに詳細な校註を加えた版が存在するわけだけれど、僕がよりにもよってこの古い文庫本をかれこれ三、四年ほど探しまわってきたのは、塚本邦雄『定家百首 良夜爛漫』(河出文庫、現在は講談社文芸文庫)がこの文庫本を敢えて底本として採用していることを知ってからだった。令息・塚本靑史氏による評伝『わが父 塚本邦雄』(白水社)などによると記憶力抜群の塚本が暗記するほどに読み込んでいたという旧版『国歌大観』。そこにも収録されていない歌がこの文庫本に二十数首ほど含まれているというのが底本に採用された理由だと『定家百首』冒頭に置かれた「藤原定家論」に記されている。 今でこそ歌人ということになってはいるものの国文科の学生でもなく、ことさら古典和歌に関心が強かったわけでもない僕が、ましてやまだ新人賞を受ける以前、歌人とすら呼ばれることのないただの大学院生だった数年前の僕がこの定家論を手に取ったのは、果たしていかなる理由によるものであったか、今となってはもう思い出せない。強いて言えば、塚本邦雄の著作が文庫に入っているということ自体が珍しく、豪華本より文庫本のほうが好きな性分から、内容にはさしたる関心もないまま、手ごろな値段で古書店の棚に並んでいたのを買い取ってきたのだろう。 それがいつの間にか定家を初めとする新古今歌人に関心を寄せるようになり、同じ塚本邦雄の『雪月花 絶唱交響』(読売新聞社、のち講談社文芸文庫『定家百首』に一部収録)や『藤原俊成・藤原良経』(筑摩書房)、『清唱千首』(冨山房百科文庫)などの評釈本や古典和歌アンソロジーを手始めに、安東次男『藤原定家 拾遺愚草抄出義解』(講談社学術文庫)や久保田淳『藤原定家』(ちくま学芸文庫)といったモノグラフ、それに堀田善衛『定家明月記私抄』正続(ちくま学芸文庫)のような伝記的著作と、あれこれ定家周辺に関連する書籍を渉猟し、特に系統立てることもないまま読み漁るようになった。その理由を探るのもまた詮無いことかも知れないけれども、そこにはやはり2011年以降という時間が深く関わっているのだと思う。 たとえば堀田善衛が『定家明月記私抄』を、太平洋戦争中の青春時代に「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖(イヘド)モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎(コウキセイジュウ)吾ガ事ニ非ズ」という有名な一節に惹かれて、当時の国書刊行会から出ていた返り点も何もない三巻本の日記『明月記』を古書店のおやじをおどして買い求めたという経験から書き出していることを、いくらか僕自身の経験に引き付けて考えてみたい気もする。これを「自分が始めたわけでもない」戦争に振り回され、若い命をよくわからないまま危機に晒され、生活や文化のあちこちが息苦しくなっていく中で若き文学者・堀田善衛がいかに生きたか、というより具体的な生々しい経緯は自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』(集英社文庫、上下巻)に縦横に書き尽されている。定家との出逢い、とりわけそれが暗い時代をいかに生きるかという点で、戦乱と滅亡に彩られた平安朝末期を生きた宮廷歌人と戦時下の若き詩人とをつないでいたことは、たとえば思想犯として投獄された留置場の陰惨な光景を前にして主人公が芥川龍之介や新古今集、それに中原中也について思索をめぐらす場面や、大学の繰り上げ卒業と徴兵を控えて下宿に引きこもり、『明月記』をはじめとする中世の暗い時代を生き抜いた人々についての資料を抜き書きしていく場面などに如実にあらわれている。 こうした定家の受容はほぼ同世代の塚本邦雄にも共通しているのかも知れないが、ここまで深刻な在り方ではないにせよ、震災があり、原発事故があり、社会が右傾化し、息苦しくなり、人の心も荒んで……という時代背景の中で僕が定家を手にとって読みはじめた気持ちも、これに一脈通じるものがあるのではないか、と手前味噌ながら考える。福島の生まれだから当然、地震や原発事故は僕の人生に大きな影を落とすことになったし、その中で就職をせず、ろくにフランス語もできないまま、およそ就職の役に立ちそうもない仏文科の大学院に進学するという選択をしたことは当然、家族から歓迎される筈もなく、生活面での苦境は深まっていくことになった。そしてまた2011年は震災の直後にある女性が精神に失調をきたし、その夏に自ら死を選ぶまでの時間を彼女と共にしたという意味でも僕には大きな影を落としている。そんな人生の真っ暗闇に落ちてしまった僕は当然のごとく生きることへの意欲をほとんど喪失して、生活費のためのアルバイトと大学院の授業、それに月二回の精神科への通院をルーチンとしてこなすだけの「生ける屍」のようになってしまっていた。上に挙げたような定家周辺の書物を手当たり次第に手に入れ、専門のフランス文学の勉強もそっちのけで系統立てずに乱読していったのはちょうどこのような時間と精神状態でのことであって、そのとき僕は僕なりに、定家に――あるいは、定家に心を寄せた堀田や塚本といった書き手に――心の拠り所を求めていたのだと、今になって振り返ってみて思う。荒廃していく世の中と、あるいはそれ以上に荒廃してしまっているかも知れない自己の内面。時代の暗さと自己の暗さと、二つの闇を抱えたとき、人は「末期の眼」を手にする。その眼に映じるのはあらゆるものの「醜さと隣り合わせの美しさ」であり、そしてそれこそが定家の歌の荒涼たる美にも通じている。強引なこじつけのようだけれど、人生のどん底に沈みきって、絶望することにもいい加減に憔悴しきったぐらいの状態でなくては味わえないような書物とか、読書体験とかいったものが恐らくは存在するのであって、前回紹介したバタイユの『内的体験』などもその部類だが、定家に関するあれこれもまた、そうした読まれ方をするに相応しい書物なのだと、僕はここで無理を承知の上で断言しておく。(そういえば水原紫苑さんも『星の肉体』(深夜叢書社)所収のエッセイ「ルサンチマンのゆくえ――定家との出会い」で、やはり定家の歌の陰に「生に対する怨恨すなわちルサンチマン」を、また「絡みつくように陰惨な生への呪い」を見ておられた。) ヴァイタリティないし生命力とでもいうべきものが著しく衰耗している状態で読んだとき、定家の歌と塚本の解釈の中でもとりわけ僕の胸に訴えかけてきたのは「かげろふ」を詠んだいくつかの作品であった。カゲロウというのは蜉蝣と陽炎、二つの漢字を当てることができるけれども、前者の昆虫も後者の気象現象も、なにやら茫洋として捉えどころがなく、見る者を一瞬だけ夢幻の世界に誘うか誘わないかというすれすれのところで、儚くも消え去ってしまうという点で重なっている。恐らくは「かげる」という動詞に語源を有するであろうこの生物ないし現象を詠み込んだ定家の歌は、やはり読者を夢幻境にいざなう華麗なレトリックと、それが現実世界の混乱、すなわち「紅旗征戎」にひたすら背を向けることで構築された反現実の反世界であるという危うさのために、それ自体が一つの「かげろふ」であるかのような感触をもっている。塚本の『定家百首』から、その観賞文のさわりとともに引いてみよう。仮名遣いや用字法などは河出文庫版に基づく。 わきかぬる夢のちぎりに似たるかな夕の空にまがふかげろふ(定家):「かげろふは蜉蝣目(ふいうもく)の昆蟲で、産卵を終ると數時間で死ぬ。はかないものの象徴的代名詞として、蜻蛉(かげろふ)とも書かれ、絲遊(いという)とも呼ばれて中世文學に頻出するが、もともと空に浮遊するさまが陽炎に似ているところから轉じたものである。」(塚本) くり返し春のいとゆふいくよへて同じみどりの空に見ゆらむ(定家):「死に變り生れ變つた自分が、幾十年、幾百年の後の春の空に、また同じ陽炎を見るであらうとまで歌意を先取りするなら、そこには酩酊感どころか救ひやうのない虚無も生れよう。そのとらえどころのない虚無の中に身をおくこと以外、中世貴族の生き方はなかつたのだ。夢幻を現實とせねばならぬすさまじさにまで思ひ及んで初めて絲遊は天然現象から美學に變貌する。」(塚本) はかなしな夢にゆめみしかげろふのそれもたえぬる中の契は(定家):「一見同義語にひとしい詩句の反覆で、いつか讀者を催眠状態にみちびき、みづからの世界にひきずりこむ定家の呪文構成であり、巫者的な歌人の本領と言へるだらう。夢みるのは作者でありそのまま蜉蝣、絶えるちぎりもまた蜉蝣即作者、その霞みけむる夢とうつつの間に、會ふこともなく戀ひしたふ二つの魂が見え隠れするといふ、言はば曖昧形而上學のおぼろな結晶である。」(塚本) 僕の生れ故郷を流れる阿武隈川には夏ごとに昆虫の方のカゲロウが大量発生し、何千匹、何万匹という規模で一斉に羽化した、うすみどり色の透き通った翅をもつ線の細い虫が夜空を埋め尽くし、飛んで火に入るなんとやらという諺よろしく橋の照明灯に引き寄せられて視界を塞ぎ、またおびただしい数の死骸が油を分泌して道を塞ぐために自動車事故が多発したことで、橋にさしかかる道路には「カゲロー注意!」と大書された看板が出ていたことを思い出す。俗称アリジゴクなる幼虫の姿で長いあいだ砂に潜って成長するこの昆虫は、ひとたびトンボをさらに頼りなく痩せ細らせたような成虫へと羽化するともはや餌を摂取するための口さえ持たず、ただ交尾と産卵のためだけに短い命を燃やす。この壮絶なまでの儚さは、たとえば吉野弘の詩「I was born.」に美しくえがかれているように、死へむけて傾斜しかけた魂にとって奇妙な魅力をもって迫ってくるものがある。この、恐らくはどす黒い絶望の大地に根を張って養分を吸うことでその上に初めて花咲いたであろう反現実の美と、それをひたすら荒れ狂う人間世界の嵐をすべて虚無と観ずる醒めきった眼で精緻な言語芸術の結晶として周囲の荒廃しきった現実から完全に切り離されたところに――まるで虚空に宮殿を築くかのように――構築した詩人・定家の孤独な後ろ姿は、当時の僕に決定的な印象を残したと言っていい。僕も、そして塚本も、濃厚なメランコリーと死への親和性に満ちているという意味ではむしろ定家よりも彼と並んで新古今和歌集の撰者の一人であった良経に惹かれるところが多く、僕は同人誌に塚本の藤原良経論について文献考証の真似事のような評論まで書いたことがあるが、しかしこの壮麗な反世界の宮殿を構築するかのごとき定家の深い絶望に裏打ちされた華麗なレトリックは、ちょっと余人の追随を許さないところがある。 その定家のレトリックの中でも半ば専売特許のように見られ、中学や高校の国語教科書にさえ紹介されている技法に「本歌取り」があるけれど、その代表として引用されることの多い、万葉集巻三「苦しくも零(ふ)りくる雨か神(かむ)の崎 狭野(さの)の渡に家もあらなくに」を本歌にもつ次の歌について、塚本はどう解釈しているか見てみよう。 駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕ぐれ(定家):「静物畫(ナチュール・モルト)化された風景畫であり、旅人は決して作者自身ではない。作者と作中人物は、萬葉のいはゆる本歌ではいたいたしいまでに骨肉を分かつてゐるが、定家の歌では一しづくの血も通つてゐない。本歌をことごとしくひきあひに出すならそこまで言及した方がよからう。白一色の畫面に淡い墨で描いたはなやかな死の空間であり、贄たるべき歌そのものが繪であつた。」(塚本) 先に引いた「かげろふ」の歌群にも、また代表歌とされることの多い「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」にも言えることだが、定家の歌に独特の「非人情」とでもいおうか、とにかく人間の影がなく、人間を指すであろう言葉がときたま登場しても、そこに実際の生きて呼吸する肉体の臭いはまったく立ち昇ってこない。この世は現実か夢かすらわからない虚無の世界であり、そこには「袖うちはらふかげ」も「駒」も、また「花ももみぢも」存在しないのである。塚本がこの歌を評するのに用いたnature morteというのは「静物画」を指すフランス語で、直訳すると「死んだ自然」という意味になり、それが「死の空間」という表現に響いてくるわけだが、実際、歌の中で「さののわたり」に立っている、この一首の視点人物たる旅人は決して定家本人ではなく、近代以降の短歌が作者と作中人物を同一視してきた怠惰な慣習とは無縁であり、ちょうど画家と絵の中の人物像がそうであるようにまったく別な世界に身を置いている。塚本は定家の歌に頻繁にあらわれる「よそ」という語に着目して、これをある種の「他界」と見做す解釈をしているが、実際、現実に背を向けて構築された定家の空中楼閣のような文学空間は人間の住みつかない「人外境」を形成しており、そしてその人外境は、現実世界に氾濫する「人間」の群れが放つ芬々たる体臭に飽いた、ないしは絶望した読者にとって存外、居心地のよい空間なのであった。 実際、こうした定家の歌に没頭していた頃の僕は2011年という、いくつかの美談をも生みこそすれ、それ以上に、保身と利益に汲々とし、流言飛語をまき散らす、そんな人間の醜い面、愚かな面を身近にも間遠にも嫌というほど見せられて、ほとほと「人間」なんてものとは関わり合いにならず静かに隠れて生きていきたいものだと思っていた。冷静で頭が切れると思っていたある知人が震災に際してデマをSNSで拡散しているのを見て以来、誰も信用できないという気持ちになった。長く外国に暮らして語学にも現代文学の動向にも強いある教師は、講義の枕に必ず数十分政治批判をぶつのだが、その中には「福島では今に畸形児がうじゃうじゃ生まれる」「政府や御用学者は隠蔽しているけど俺は知っている」「原発事故があったのに自民党の候補を当選させる福島県民は頭まで放射能に汚染されているに違いない」といった言葉が散りばめられており、僕はその講義をサボりがちになった。また、大学の看板ということになっている学部で官僚を目指していた後輩は、原発事故で打撃を受けた農家のおばあさんが避難生活に疲れ「わたしはお墓にひなんします」と遺書を残して自殺したニュースに触れて「面白いジョークだと思う」とSNSに投稿していた。たとえ偽悪趣味から出たもので本心からの言葉ではないにしても、僕以外にも福島に家族を残している人が多く見ていることがわかっている場でこうした言辞を弄するという精神がどうしても理解できず、この人とはその後すっぱり縁を切った。この種の体験がいくつも積み重なり、また故郷の福島でも住む地区や原発への考え方によって、それまで維持されてきたかりそめの秩序が崩れて人間関係が険悪になり、バラバラに離散していくのを見たことまで書き添えれば、「人間に絶望した」という大袈裟な言葉も当時の――あるいは今にまで続く――僕の気持ちにそれなりに深く根ざしたものとして少しは理解していただけるだろうか。そういった精神状態で読む書物として、詩歌として、人間を寄せ付けない「人外境」を構築する定家の歌は絶好のものであった、とさえ言えるかも知れない。 最近になって僕の歌はいくらか批評を受ける機会が増えたのだけれど、そこで他の若い世代の歌人とまとめられるかたちで、僕や他の二十代、三十代の歌人の作品には「人間」が不在であるというお叱りを受けることが多い。「人間」の世界にきっぱりと背を向けたところから立ち上がる人外境を定家の歌の中に見てきた僕に、明治以降の、あるいは戦後の短歌を貫く「人間」が詠まれていなくてはならないという風潮は、たとえば「人間(という概念)は波打ち際に描かれた顏のようにいずれ消え去ってしまうだろう」というフーコー『言葉と物』の有名な末尾の言葉を思い出すまでもなく、近代という時代が要請した下らない制度をいつまでも引きずっている歌壇人の怠惰の証拠のようにしか思われず、どうにも馴染めないものがあった。実際、文学作品に対して言葉によって構築される美ではなしに作者の「人間」を求めてそれが得られないと非難する読者はどこか、娼婦に身の上話をせがんだ挙句にこんな商売をしていては駄目だとこんこんと説教を垂れ、そのくせやることはやってスッキリして帰っていくという、あの迷惑な客に似ていると思う。 悪口はともあれ、僕は塚本が定家の作品に見た非人間の極致ともいうべき美にこそ詩歌の本質が、とりわけ、定家の生きた平安朝末期から鎌倉という時代、塚本や堀田善衛が生きた愚かな戦争の時代、そして僕たちがいま生きつつある時代という三つの「乱世」にあるべき詩歌の本質があるのだ、と強く確信している。その詩歌が織りなす人外境を『定家百首』の塚本邦雄は、有名な「見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」を題材にとり、次のような詩のかたちで現代語に翻訳してみせた。 はなやかなものはことごとく消え失せた この季節のたそがれ 彼方に 漁夫の草屋は傾き 心は非在の境にいざなはれる 美とは 虚無のまたの名であつたらうか まこと、美とは虚無のまたの名のことであろう。