第7回 放課後の物騙り、存在の夏休み――稲生平太郎/横山茂雄 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2015.06.12 去年、いくつか論文を書いた。それはいろいろな補助金や研究費、奨学金を獲得するための「業績」作りであり、また実用語学(聞く・話す・書く)が仏文科の大学院生とはとうてい思えないほど酷いのをごまかすためでもあるのだが、ともかく、ちょっと多いぐらい書いた。学会発表を一つ、査読なし論文を一つ、査読付き論文を二つ、研究要旨を一つ。 その中の一つ、今年の三月になって大学院の紀要に載った「怪物、あるいは可能なるものへの裂開」という論文で、僕は専門にしているジョルジュ・バタイユについて、彼が戦後主宰した書評誌『クリティック』に発表された書評「怪物的小説」(二見書房版バタイユ著作集『言葉とエロス』に山本功訳で「怪物じみた小説」として所載)を取り上げた。バタイユがこの文章で論評しているのは、19世紀スコットランドの詩人ジェイムズ・ホッグの『義とされた罪人の手記と告白』(国書刊行会から『悪の誘惑』の邦題で高橋和久訳が刊行されている)という小説である。この小説が、読んでいただけばわかるのだが何とも奇妙なシロモノで、バタイユという人は書評だろうと関係なく、対象とした本を出発点にして自分の思索ないし妄想をたくましく展開していく書き手なのだけれど、「怪物的小説」という文章ではあらすじや内容を把握して要約することに精一杯といった感じだった。 さしものバタイユでも要約に苦しんだこの小説を僕が敢えて暴力的に紹介すると、概略以下のようになる。同じ名家に生まれた二人の息子が、兄は父の跡を継いで領主として世俗の権力を得る一方、弟は母とともに父から見放され、育ての父となった聖職者の影響のもと「救霊予定説」という過激なカルヴァン派の信仰に没頭していく。弟はドッペルゲンガーじみた不気味な男に導かれるまま、為した悪行が大きければ大きいほど、そうした罪人ですら救済する神の偉大さが証明されるという思想を狂信し、ついに兄を殺めるにいたる。弟は裁判でこそ勝訴するものの、彼を唆した不気味な男こそは悪魔であったと確信し、手記を遺して自殺してしまう。その手記の前後に「編者の語り」としてこの事件のあらましと自殺者の墓から手記が発見されるまでのいきさつが語られるのだが、この小説の「怪物性」はここに生じる。兄殺しの犯人である弟の手記が客観的な情報を集めたはずの「編者の語り」と食い違う。それだけなら弟が事実を偽っているということになるだろうが、中立であるはずの編者はよく読むと殺された兄の方にかなり肩入れしており、客観的なはずの「編者の語り」もその正しさには疑問符が付くことになる。さらに編者とは別に作者自身も「ジェイムズ・ホッグ」として登場し、彼が語る内容も「編者」のそれとはまたいくらか食い違ってくる。ホッグ自身の人生も、羊飼いとして無学のまま育ったのが大人になってから詩人としての才能を発揮して一躍文壇に認められるという伝説的なもので、彼の書いた小説も彼自身の生涯も、語られれば語られるほど何が事実で何が虚構なのかわからなくなるような、そんな奇妙な構造になっている(このあたりはホッグの邦訳者でもある高橋和久が研究社から『エトリックの羊飼い、羊飼いのレトリック』という面白い研究書を出している)。 僕はこの種の、何人かの人物――その中には精神の均衡を崩し、正気を失った人物も含まれる――が語る物語がそれぞれ食い違って事実と虚構の境目がわからなくなる、いわば「物騙り」とでも呼ぶべきメタフィクション的作品が好きで、2001年発売の伝説的アダルトゲーム『さよならを教えて』や、2002年に角川スニーカー文庫「ミステリ・シリーズ」の一冊として、米沢穂信の『氷菓』などと一緒に刊行された稲生平太郎『アクアリウムの夜』について、それぞれ大学三年と四年のとき、学内の雑誌『xett』に幼稚な批評を書いたことがある。特に前者は、いわゆる「エロゲー」についての批評文が大学の公式Webサイトに掲載されたということでネット上でもちょっとした話題になったりしたのだが、それは別の話。僕が紹介したいのは小説『アクアリウムの夜』の方である。 僕がこの小説の存在を知ったのは中学三年の冬、ということは2004年の末ごろだったと思う。この年末に『このミステリーがすごい!』の増刊として出た最初の『このライトノベルがすごい!』はランキング(ちなみに一位が谷川流の『涼宮ハルヒ』シリーズで二位が西尾維新の『戯言』シリーズだった)よりも、まだライトノベルを総覧的に特集した雑誌やムック本が少なかった頃だから、ライトノベルの歴史についての詳細な年表や、これまでに刊行された名作をジャンルごとに紹介する頁など、資料的側面を重視した作りだった。そうした中の一つ、ホラー・オカルト系の作品を紹介するページに、恐らくは微妙な空白ができたゆえの埋め草記事のようなものだったのだろうが、執筆者がそのジャンルで個人的に推薦したい作品を何点か紹介するという小さなコラムがあり、そこに稲生平太郎『アクアリウムの夜』の名前があったのである。 その魅力的なタイトル、未知の著者名、読み終えてからも現実と虚構の境目があやふやになり背筋の凍る思いがするという煽り文句、そして作中に登場するという謎めいた暗号「いかなる死もhlを解読しない」……。中学生の僕は一も二もなく惹きつけられたのだが、その2004年末の時点で既に「現在は入手困難」と書かれていたぐらいだったので、福島の片田舎から脱出する術もなかった当時の僕にはとても手に入れることのかなわない、まさしく「夢の一冊」、「幻の一冊」だった。ようやく入手したのは大学一年生の秋、それも角川スニーカー文庫版ではなくて、その元になった1990年に書肆風の薔薇(現在の水声社)から刊行された単行本の方だった。水声社の雑誌が関係しているシュルレアリスム美術についてのシンポジウムで配られていた刊行書目のカタログに長年来探し続けてきたこの小説が載っているのを見付けて、さっそく注文したのである。 この小説もホッグのそれとよく似た、複数の人物による語りが互いに食い違い、ついにどこまでが実際に起こった事件で、どこからが妄想だったのかわからなくなる怖い「物騙り」である。高校生の主人公「ギー」こと広田義夫、それに友人の高橋と幼馴染の良子の三人は、何でもない、春のもの憂い放課後に起こった小さな、ほんの小さな出来事をきっかけに、なぜか水族館のある内陸の町に隠された、不気味な闇の部分に触れることとなり、三人のうち一人は死に、一人は行方不明になり、残る一人も狂気に陥ってしまう。そうして既に「すべてが終わってしまった」後になって「取り返しのつかない出来事」として事件を語り……いや「騙り」だすこの小説は、木村敏が鬱病の時間感覚を「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」と規定したその意味で、今の僕には頁をめくり直すのもためらわれるほど生々しいメランコリーに満ちた作品だ。文化祭や夏休みも含め、学校生活にぽっかりと空いたエア・ポケットのような時間、それを僕はまとめて「放課後」と呼びたいのだが、そこには青春の、ないしは思春期の真っただ中にあっては気付かなかったものの、今から思い出すとゾッとするような、一歩間違えば命取りになる落とし穴がたくさん潜んでいた。あるいは、思春期という時代を僕たちはみな、それと気付かぬまま危険な綱渡りとして通過してきたのかも知れない。その綱渡りに失敗し、真っ逆さまに墜落していった少年少女たちの姿をあまりにも痛々しく、そしてそれゆえに甘美に描き出したこの小説については、作者自身がその想いを語った「思春期をめぐる物語」という文章がファンサイトに全文転載されているため、検索すれば容易に読むことができる。 だがその文章と同じくらいこの小説の作者自註として有用な文章に、最近になってまとめられた彼の評論集『定本 何かが空を飛んでいる』(国書刊行会)に収められた「平田翁の「夏休み」――『稲生物怪録』をめぐって」がある。歴史の授業ではせいぜい狂信的な国学者としてしか習わない平田篤胤が妖怪変化の世界を研究した著作の一つ『稲生物怪録』を論じたこの短い文章は、江戸時代に備後国の武家に生まれた16歳の少年がひと夏に経験した妖怪騒ぎを記録した『稲生物怪録』を「夏休みの冒険を描いた一篇の少年小説」として読み直そうとする試みである。そしてその「夏休み」は多くの少年小説における夏休みがそうであるような、少年から大人への成長のためのイニシエーションとして機能することが決してない。それは「忽然とやってきて、また忽然と去っていった」「根源的郷愁性」をもつ〈夏休み〉であり、「成長の如きものとは無縁でなければならない」し、しかし「わたしたちのもとに突然やってくる」、それも「程度の差はあれ、すべての人に訪れるはず」の〈夏休み〉なのである。これを著者は「〈存在〉の〈夏休み〉」と名付ける。そして著者は、たった一度きりの「存在の夏休み」を体験してしまった少年たちの末路は「(1)身をもちくずす、(2)生涯を〈夏休み〉の捜索に費やす」の二通りしかないと結論付けるのであった。ここで「存在の夏休み」と呼ばれている時間は、別なエッセイで彼が「思春期」と呼んだ時間に通じるものであり、また、僕が『アクアリウムの夜』について書いた「放課後」の時間とも同じものを指すのだろう。 ここまで読んできて見当のついた人も多かろうが、著者の「稲生平太郎」というペンネームはこの『稲生物怪録』の主人公・稲生平太郎少年に由来する。『アクアリウムの夜』では幻想文学の研究と翻訳に従事している、とだけ書かれていたこの謎めいた著者「稲生平太郎」の正体は、京都大学出身でロマン主義小説を中心に幅広い研究をおこない、某国立大学の教壇に立つ英文学者・横山茂雄だった。憧れの小説の著者が国立大の教授であると初めて知ったとき僕はまだ進路を決めあぐねている高校生で、進路希望調査のたびに志望校が変わるので呆れられていたのだが、これこそ運命だと思ってさっそく用紙の第一志望校の欄に横山=稲生の勤務先の大学名を書いたところ、進路指導室に呼び出された。われを忘れて「教わりたい教授がいるのです」と熱っぽく志望動機を語る僕に、先生はひどく困惑した様子で「君はこの大学には絶対に進学できない」と懸命な説得を試みた。なんのことはない、稲生平太郎=横山茂雄が教鞭をとっているというので僕が進路希望調査用紙に書いた国立大学の名前は奈良「女子」大学だったのである。興奮のあまり僕は自分の性別を考慮に入れるのを忘れていたわけだ。 こうして憧れの著者に教わる夢を諦めた僕は早稲田大学に進んで大学院に残り、冒頭で触れた論文を書くためジェイムズ・ホッグについての研究書を探すことになった。そこでホッグのこの小説に一章を割いた英文学書を手にとって、僕は思わぬ偶然に驚愕させられることになる。『異形のテクスト』(国書刊行会)と題されたその書物こそは横山茂雄、すなわち『アクアリウムの夜』の作者・稲生平太郎の博士論文なのであった。二つの「物騙り」の間には既に、僕の知らないところで伏線が張り巡らされていたわけである。