Columns

私の国
第3章

Beatrix Fife “Bix”

2019.12.14

私は、この新しい国に住んでいる。その国の言葉はわかっていると思っていた。ひとつひとつの単語の発音と意味は、これまで習ってきたものと同じだ。でも抑揚とリズムは違う。同じ言葉を、ほかの人たちはどんなふうに受けとめ、どんなふうに話しているのだろうか? ちょうどラジオの周波数を合わせるように、ほかのみんなに合わせようとする。これには何かワクワクするところがある。でも逆説的なことに、それと同時に私はひどく疲れを感じてしまい、自分のなかが空っぽになったような気がし始める。もちろん言語だけの問題ではなく、新しい土地にきたこと、母が病気になったこと、父もあまり調子がよくなく、そして私自身、これまでの生活を失って寂しく思っていたこともあるのだろう。

新しい人々と出会い、新しいことをいろいろ試し、新しい言葉やイントネーション、そして新しい考え方を学ぶのは楽しいことだ。
でも一人になると、自分の部屋の青いカーペットに寝そべって、以前の生活のことを考える。私は誰なのだろう? なぜ、ここにいるのだろう? 私の母国だと思われるこの国は何なのだろう? ひどく疲れた気分だ。

 

お隣の家から、暗い白夜のしじまをぬって、男の子の叫ぶ声が聞こえてくる。その子のお父さんとお母さんに玄関口でお会いしたとき、息子さんは病気なのだと聞いた。彼は私と同い歳だ。夜中に響く彼の叫び声には、何か内面が引き裂かれるような、世界が二つに裂けてしまうような響きがある。私は、どこか彼に近しいものを感じていた。

彼のお母さんはピアニストだ。ある日、その家の玄関のチャイムを鳴らす。扉を開けてもらった瞬間、この人には私の感じていることを理解してもらえるということがわかった。ほとんど初心者だけれど、ピアノを教えてもらうことができるでしょうかと訊ねてみる。彼女は、大丈夫よと言い、それから数日後に私のうちに来てくれた。
「何を弾きたいの?」と問われ、
「ノクターンの1曲です」と、答える。
とても速く、そしてとても美しく演奏されるその曲には、暗い夜のイメージがある。私が心の内に抱いているあのイメージだ。その曲は難しいし、私はそれまでほとんどピアノを弾いたことがなかったから、駄目だと言われるのではないかといくらか怖れながら、通常の演奏とは違ったかたちでこの曲を弾いても許されるだろうかと、おずおずと質問する。もっとずっとゆっくりと弾きたいと思っていたのだ。

「大丈夫よ」と、彼女は深い眼差しで私の瞳をのぞき込むようにして答えてくれた。私の気持ちをわかってくれているのだ。

私の気持ちを落ち着けるための、私自身のリズムを見つけるための、これが第一歩となる。初心者のたどたどしい手ながらも、自分自身のペースでピアノを弾くことで、私自身の内面のとても暗い未知なる部分にある新しく困難な道を進むために、音楽が導いてくれるかのようだ。私はその男の子に会ったことはないし、会うこともない。でも、私が彼のために弾いているこの曲を聞いてもらいたいと望んでいる。

彼のお母さんは、私にこう言う。
「ただ弾けばいいのよ。必要なのはそれだけよ」。なぜなら彼女は、その子がどんな気持ちでいるかも知っているからだ。

 

外側のリズムに対して空虚な内側、このときから数年後に描いた作品。 油彩、パステル・紙 70× 90 cm

 

来月に続く

Beatrix Fife “Bix”
Beatrix Fife “Bix” プロフィール

ストックホルム生まれ。幼年期をローマで過ごす。幼い時から3ヶ国語を話しピアノを習う。7歳の時、フランスのパリに移ってからフルートを始める。
オスロの大学へ進学後に絵画、演劇を始め、その後ニューヨークのオフブロードウェイでの演出アシスタント を経てブダペストの美術アカデミーでさらに絵画を学ぶ。90年オーストリアの絵画コンクールで入賞したのをきっかけに渡日。 京都にて書家田中心外主宰の「書インターナショナル」に参加。展覧会や音楽活動、ダンスや映像との複合パフォーマンスを行うなどして9年間を過ごす。 95年から99年まで、Marki、Michael Lazarinと共にパフォーマンスグループ「フィロクセラ」として活動。 97年、劇団「態変」音楽を担当、数公演を共にする。
99年、ベルギーに移る。ダンスパフォーマンスや絵画展覧会の他、ブリュッセルの音楽アカデミーでジャズピアノ、フルートを学ぶ。 2005年 ベルギーのエレクトロポップグループNEVEN に参加。2007年以降は Peter Clasen と共にBixmedard(ビックスメダール)として活動。 一方では、フランシュコンテ大学言語学修士を修了し、ブリュッセルにBLA語学スクールを開校、運営。 2010年夏より、再び活動の拠点を日本に移し Bix&Marki でフランス語のオリジナル曲を演奏。 絵画展も随時開催。 語学講師も行う。


■訳者プロフィール
中山ゆかり (なかやま・ゆかり)
翻訳家。慶應義塾大学法学部卒業。英国イースト・アングリア大学にて、美術・建築史学科大学院ディプロマを取得。訳書に、フィリップ・フック『印象派はこうして世界を征服した』、フローラ・フレイザー『ナポレオンの妹』、レニー・ソールズベリー/アリー・スジョ『偽りの来歴 20世紀最大の絵画詐欺事件』、サンディ・ネアン『美術品はなぜ盗まれるのか ターナーを取り戻した学芸員の静かな闘い』(以上、白水社)、デヴィッド・ハジュー『有害コミック撲滅! アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』(共訳、岩波書店)、ルース・バトラー『ロダン 天才のかたち』(共訳、白水社)、フィリップ・フック『サザビーズで朝食を 競売人が明かす美とお金の物語』(フィルムアート社)など。