第22回 プリズムが本質を暴き出す、カメラという機械の恐ろしさ 新納 翔(にいろ・しょう) Peeling City 2017.07.15 9月にふげん社より出版予定の写真集「Peeling City」の製作もようやく始めの一段落を迎えることができ、久しぶりに645Dに105ミリという安定のスタイルで国道1号線を歩いてきた。ステートメントに頭を悩ませている今、出発点に戻れば何かしらの閃きがあるやもしれぬという算段である。 もともとアスファルトの照り返しがきつい道路とはいえ、輪をかけて今年の猛暑はきつい。ギラつく太陽とはこのことかといわんばかりに、本格的な夏を迎える前からジリジリと皮膚を焼きつける。もしくは単に歳を取っただけのことかも知れぬ、学生時代の今時分、品川から横浜まで歩いたのは自分でも信じられない。 一体何でこんな暑さの中、道路の写真を撮らねばならないのだ! そんなわがままな愚痴をつい口走ってしまう。 もし写真を始めた日からの足跡を全て地図上にマーキングできたとして、後数十年死ぬまで写真を続けたらせめて東京都内は真っ赤に塗りつぶされるのであろうか。この島国日本、狭いようで広大だ。そんなスケールで考えると宇宙の広さなど想像だにできない。 ここ一ヶ月作業部屋に籠ってずっとプリントをしていたせいか、プリント上の景色が頭の中に刷り込まれてしまっていたようだ。その景色が未来永劫そこに存在し得るかのような錯覚。自分勝手な写真家だけがそんな、あたかも時が止まったかのような勘違いをするものである。都市の新陳代謝は思う以上に早い。 写真に時間を止める力などあるはずがない。プリントの上に写し出さえれる景色は所詮偽りなのだ。 そういえばまだ家で暗室作業をしていた頃、川崎あたりで撮った人のプリントが上手くいかず何度も何度も焼き直していたことがあった。その人とずっと対峙していた気になってしまったのだろう、偶然鶴見駅でその人を見かけ、つい話しかけてしまったことがある。 写真家がその瞬間をプリントに封じ込めるという作業は、時間の流れが違うパラレルワールドをそこに作り出しているようなものなのかもしれない。そう考えれば、プリントは現実と違う時間が流れる並行世界だということができる。 現実流れる時間軸とプリント上の時間は決して交わらない並行世界。写真を撮るということは、時間を止めるのではなく、絶対的な時間軸から切り離して違う時間の流れを与えることなのだろう。それを人々は想い出やら記憶といった言葉で呼ぶのだと考える。 写真を撮るということは、光を七色に分けるプリズムのように時間を違う方向に分ける作業でもある。元来一眼レフには正像を得るためにペンタプリズムが使われているのは何かの偶然なのであろうか。 今作「Peeling City」では表層的な社会の表皮を剥がし、そこに隠れている現代社会の本質を探しだそうとしている。我々は無自覚にも様々な歴史が堆積した土地の上に暮らしている。そこを少し剥いでみるだけで、過去があらわになる。カメラという存在は使いようによっては暴かず知らないでいたほうが平和だったものをも、白日の下にさらしてしまう恐ろしいものなのである。 ◀前の記事へ 『Peeling City』記事一覧 連載コラム一覧に戻る