第2回 一行のボオド「レエル」 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2014.12.26 新進気鋭、才気煥発、といった感じのまだ若いフランス人哲学者に、指導教授が(もちろんフランス語で)僕をこんなふうに紹介した。「タンカという、日本の伝統的な詩があって、彼はその分野で若くして大変に重要な賞を獲得した学生なんだ……」。ハイカイ、という名前で第一次大戦後ぐらいからフランスでも幅広い知名度を獲得した俳句と違って、短歌というのは決して国際的に通用する用語ではないらしく、その哲学者は困ったような顔で僕に言った。「ポエット? あなたはポエットなのですか?」 短歌を作ってはいても詩心とは程遠く、「現代詩手帖」に連載を持っていながらその実、現代詩の世界にはまったく蒙い僕が初めて出会った「ポエット」は、御多分に漏れずというかなんというか、シャルル・ボードレールであった。しかし僕はボードレールの名前を最初から「ポエット」の名前として了解したわけではない。 あれはたしか中学一年生の頃、学校で配られた文庫本の注文票で欲しい本のところに丸をつけ、そのぶんの代金を専用封筒に入れて持っていくと、夏休み前ぐらいに注文した本が届くというシステムがあった。ろくに本屋もない田舎町の学校にだけ存在したシステムなのかも知れない。新潮文庫、角川文庫、集英社文庫の三社があったと思うが、右も左もわからないまま、漱石・三島・川端から乙一・村山由佳に到るまで片っ端から丸を付けて注文したので、どの版で誰の作品を読んだかまではよく覚えていない。ともかくそこで、先生からも周りの生徒からも呆れられるほど注文した大量の文庫本を抱えて帰り、間近に迫った期末テストの勉強を放擲して(点数がガタ落ちして父からぶん殴られたのはまた別の話である)濫読した中に芥川龍之介があり、たぶんその解説か何かに引用されていたのが『或阿呆の一生』のあの有名な一節だった。 「人生は一行のボオドレエルにも若かない」……。学齢にも満たない頃から「人は皆いつか死ぬのだ」という漠然とした厭世観に憑かれ、田舎の公立中学に進んでからは、今ではマイルドヤンキーあるいはマイルドでないヤンキーとして立派に大人になっているであろう粗暴な生徒ばかりの学校の雰囲気に馴染めず、どこか別な世界へ逃げ出したい、そこにしか自分の居場所はないのだと思い込んでいた僕にとって、自殺した作家としてその名を知っていた芥川の言葉には強く訴えかけるものがあった。……あった、のだが、十三歳の僕はかわいそうに「ボオドレエル」がフランスの詩人の名前だということを知らず、線路の「レール」の一種だと思い込んでいた。文庫本の解説にはこの一行しか引用されていなかったから、これが主人公が丸善の洋書部で背表紙に書かれた作家の名前を一人ずつ読み上げていく場面にあらわれる一節だということがわからなかったのだ。それに同じ作品からもう一つ、「架空線」が放つ「紫いろの火花」を何としても手に入れたいと思ったという箇所が一緒に紹介されていたから、余計に電車の線路という印象が強まったのだろう。 これまた都合がいいのだか悪いのだか、そのころ引っ越したばかりの家のすぐそばを阿武隈急行という単線で二両編成のローカル線が通っていて、部屋にいると一時間に一本ぐらい電車の通る音が聞こえた。隣の福島市まで出るのに片道で四四〇円もかかるこの電車に乗るのは中学生にとって困難だっただけに、却ってこの線路がここではない別などこか、外の世界へつながっているのだという憧憬は日増しに強まっていた。家のそばを通る単線の線路はその頃の僕にとって、芥川にとっての「一行のボオドレエル」に優るとも劣らず、この田舎町に縛り付けられた厭わしい人生からおさらばするための輝かしい「レエル」だったのである。 福島市内の高校に合格し、その「レエル」の上を走る電車に乗って毎朝通学するようになった頃にはさすがにボードレールが線路ではなく外国の詩人だと理解し、その作品にも翻訳を通じて親しむようになっていた。高名な『悪の華』よりも散文詩集――三好達治訳の『巴里の憂鬱』(新潮文庫)と福永武彦訳の『パリの憂愁』(岩波文庫)のどちらの版だったかはもう忘れてしまったが――の方に魅かれたのは、韻文詩よりは散文詩の方が翻訳でもその味わいが伝わりやすく、またある程度の筋書きのある、洗練された掌編小説としても読むことができる作品だったせいもある。しかし何より、胸中に巣食ったきりいよいよ我が物顔で僕の思考を支配し、一刻も早く死ぬほかに解決策はないと昼も夜も脅迫してくるあの厭世観にぴったりくるような言葉が散りばめられていたことが、十六歳の僕がこの小さな書物に捕えられてしまった最大の理由だったのだと思う。今にしてみればなぜあんなにも「死」に囚われていたのかまったくわからず、鬱病以外の何物でもなかったと思しい当時の僕が、夏休み、ベッドから起き上がる気力もないまま何遍も読み返していたお気に入りの一篇は「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」と題されていた。 「この人生は病院だ。患者はそれぞれベッドを移りたいという欲望に憑かれている。こちらの患者がどうせ苦しむのなら暖炉のそばがいいと言うかと思えば、あちらの患者は窓のそばに行けば具合がよくなるものと信じ込んでいる」……その散文詩の出だしを、いま手許にあるプレイヤッド版全集の原文から僕なりに訳せばこんなふうになる。この患者の一人たる「私」もまた、今いるこの場所から離れれば苦しみはなくなると思い込んで、自分の魂にあれこれ「引っ越し先」を提案する。リスボン、ロッテルダム、バタヴィア、はたまたバルチック海の果て、北極……。そして終始だんまりを決め込んでいた「魂」は遂に爆発して、こう叫ぶのだった。「どこだっていい! どこだって! この世の外ならどこだって!」 人生がそれ自体で病院なのだとしたら、東西南北どこへ行こうと無駄、この苦しみから逃れるためには人生という病院、すなわちこの世からおさらばするしかない。実際、田舎の中学から憧れていたあの電車に乗って脱出して、県庁所在地の、県内では一番の進学校とされている高校に進んだところで、憂鬱な人生は憂鬱なまま、僕は苦しんでいるではないか……。そんな考えがいよいよ強迫観念となって逃れがたく、一日じゅう頭のなかでガンガン鳴り響くようになった晩夏のある日、僕はふらふらと家を出て、夕焼けの照りつける線路の方へ向かって歩き出した。いま註釈を見てみると「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」という題は、ボードレールがエドガー・ポーの評論を通じて知ったトマス・フッドの英詩からの引用で、一語に綴られるべきanywhereがany whereと二語に分かたれているのは誤植または誤記とされている。しかし当時の僕にはこの空白が一本の線路、一行の「レエル」の通り道にしか見えなかった。その上を電車が通過したためにanywhereという語が二つに引き裂かれた轢死体、それがany whereだと思った。ボードレールが詩人の名前だと知り、電車通学をするようになってもまだ、線路は僕にとって「この世の外」へ連れて行ってくれる輝かしい「一行のボオドレエル」だったのだろう。僕は線路の上に身を横たえた。レールは夏の夕日を反射してぎらぎらと光っていた。 ……しかし電車は来なかった。いつまで経っても来なかった。一時間に一本しか通らない、赤字採算のローカル線である。死の誘惑に酔いしれて、そのことをすっかり忘れていたのだ。どれぐらい待ったのか、そのうちふと我に返って、すると急に死ぬのが怖くなり、半ベソをかきながら家に帰った。夕飯は焼き鮭だった。 この間抜けで滑稽な自死未遂譚をわざわざ語るという、およそ自分語りの中でも最も悪趣味な部類に入るであろう所業をここで敢えてなしたのは、一つには自分が今後このような馬鹿げたことをしでかさないため、もう一つにはこの種の厭世観に憑かれた僕の同類に、いかにその厭世観に基づく行動が愚かで滑稽であるか知らしめるため、のつもりである。十六歳の頃には気付けなかったが、当時の僕を厭世の味に酔わせたのと同じ散文詩集のなかで、ボードレールはこうした勘違いから馬鹿げた行為に走りがちな青少年の心理を、むごたらしいほど露わに解剖してくれているのだ。それはたぶん、彼自身もまた僕らの同類だったからであり、次のような一節をわざわざ書きつけたのは、僕がいま自分の恥を晒したのと同じような、自戒を込めた忠告だったのだろう。「どうして、いちばん簡単でいちばん必要なことさえ成し遂げられないような奴らに限って、唐突に余計な勇気を発揮して、この上なく馬鹿げた、そして時にはこの上もなく危険な行動にでてしまうのか」(「不憫な硝子売り」 « LE MAUVAIS VITRIER »)。 書物への旅はときに、危なっかしい横道へ入り込んでいってしまうことがある。しかしそこから生還する道を教えてくれるのもまた書物なのだが、あの頃の僕のように一人で書物の世界にのめりこんでいるとその道に気付けないまま、危ない方向へ一直線に進んでしまいかねない。書物というやつはできるだけ、道を逸れそうになったとき引き戻してくれる誰かと一緒に読むのが望ましいもののようである。