第1回 雨はライプニッツのように 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅〜記憶=私の不確かさをめぐる12の断章〜(第2期) 2016.01.25 雨の音で何にも聞こえない 君のくちびるは “サヨナラ”のカタチを描いて こわばる ――RIKA「雨の中で僕は」 青春とは傘も持たずにどしゃ降りの雨の中をあてもなく歩きまわるような人生の一時期のことだ、と、ある哲学の概説書に書いてあった。哲学の本をそう書き出すことの当否はともかくとして、ぼくはその本について、今はもうこの一文しか覚えていない。実際、十代半ばから二十代も後半にさしかかった今にいたるまで、ぼくは傘をどこかに置き忘れたまま、雨の中をずぶ濡れになって、みじめに彷徨ってきたような気がする。けさ目を覚ましたときも雨が降っていた。窓に打ちつける激しい雨音で、ぼくは夢も見ないほどの深い、泥のような眠りから数時間ぶりに醒めた。おもてはまだ暗かった。 モナドロジー/形而上学叙説(中公クラシックス) ライプニッツは、夢を見ない深い眠りと死とのあいだに本質的な差異を認めていない。『単子論(モナドロジー)』の第20節、第21節で「我々が気絶した時や夢一つ見ずに深い眠に入つた時」、また「絶えず同じ方向に何回も何回も続け様に廻る」ことで「目が廻つて気が遠くなり少しも物事の見別けが附かなくなる」ときを取り上げて、彼は「死は動物に暫くの間この状態を与へることがある」と書いている。これに先立つ哲学者アルノーとの往復書簡でも、ライプニッツはこう書いている。 「死の似姿である眠り、恍惚、またこれも死とみなしてよいでしょうがカイコが繭に入りこんだ状態、おぼれたハエに乾いた粉をまぶして蘇生させること(これはそのまま放置すれば、まちがいなく死んでいたはずです)、命のかけらもないような葦のなかの冬場の巣からのツバメの蘇生、また凍死、溺死、扼死したひとびとの蘇生などを考えてみてください……」。 ぼくの故郷は養蚕業が盛んだった。透き通るように白いカイコはひたすらに桑の葉だけを食べ、やがて雪のように真っ白な絹糸でおのれの繭をつむぎ、長い眠りにつく。死とはそんなものではないですか、と、ライプニッツはぼくに語りかけてくる。雨はまだやまない。 南方熊楠の日記にこんな一節がある。「一八九四年九月二二日 土 雨。ライプニッツの如くなるべし。禁茶禁烟、大勉学す」。この「雨。ライプニッツの如くなるべし」というのはもちろん「(今日の天気は)雨。(私は)ライプニッツのようにならねばならない」という意味だが、ぼくは初めて読んだとき、どういうわけかこれを「雨(が降っている)。(その雨は)ライプニッツのようである」と解してしまった。まともに考えればライプニッツも人間なら、南方熊楠も人間であって、人間と雨を結び付けるよりはライプニッツと南方熊楠を結び付ける方がずっとまっとうな解釈である。そんなことは百も承知なのだけど、それでもぼくの頭のどこかには今もなお、雨とライプニッツとを強引に結び付けてしまうような、そんな連想が拭い去れないまま残っている。澁澤龍彦はモナドを『胡桃の中の世界』になぞらえ、田中小実昌は『単子論』を読みながら、ギリシャかどこかで見た、海岸に窓のない脱衣小屋がいくつも並んでいる景色を連想したが、ぼくにとっては依然として「雨はライプニッツのように降る」のである。しかし、ライプニッツのような雨とは、いったいどんな雨なのだろう。 降りしきる無数の雨粒の、そのひとつひとつのしずくに周りの景色が映りこんでいる。雨粒ひとつひとつの中に世界があるともいえるのだが、雨粒の中の世界と雨粒の中の世界とのあいだにも、また、雨粒の外の世界と雨粒の中の世界とのあいだにも交通があるわけではなくて、あくまで反映というかたちでひとつひとつの中にそれぞれの世界がある。こう考えたとき、雨粒はライプニッツのいう単子=モナドとどこか似てはいないか。 ライプニッツがモナドという言葉を使ったのは晩年になってからで、それまでは同じ概念を「実体的形相」「個体的実体」「原始的な力」「実体的統一」などさまざまに呼び替えていたが、ぼくの理解している範囲で乱暴に言ってしまえば、モナドというのは「こころ」とか「魂」、もっといえば「わたし」ということだと思う。モナドは人間だけでなく、動物にもある。たぶん植物にもあるし、もしかしたら石や砂粒にもあるかも知れない。わたしがわたしであること、その犬がその犬であること、その薔薇がその薔薇であること、その石ころがその石ころであること、その雨粒がその雨粒であること。そういうことをライプニッツは、たぶん「モナド」と呼んだ。モナドの語源はギリシャ語のモナス。「一」という意味だ。ひとりひとり、一匹一匹、一輪一輪、一粒一粒……。それが「モナド」ではあるまいか。そのモナドは「拡がりも形も可分性もない」単純な実体で、分解されることもなければ、勝手に生じたり消滅したりもしない。そして何よりモナドには「物が出たり入つたりすることのできるやうな窓が無い」。わたしは窓を通って勝手にあなたの中に入りこんだり、犬の中に、薔薇の中に、石ころや雨粒の中に入りこんだりすることはできない。わたしはわたしでしかありえないし、その犬はその犬でしか、その薔薇はその薔薇でしか、その雨粒はその雨粒でしか、そして、あなたはあなたでしかありえない。 こうした考え方と「窓が無い」という印象的な比喩のせいで、ライプニッツのモナド論は今でも悪しき独我論の代名詞のように言われることがある。お互いに窓がないのでは、モナドとモナドのあいだ、わたしとあなたのあいだでは、決してコミュニケーションがとれないことになってしまう。それを何とか取り繕うためにライプニッツは「予定調和」という考え方を持ち込んでごまかそうとしたのだ、と悪口を言われることもある。英国の哲学者バートランド・ラッセル卿はモナドロジーを「おとぎ話」と称した。しかしライプニッツはモナドを「宇宙の永久な活きた鏡」とも呼んでいる。モナドには表出とか表現とかいった性質がもともと備わっており、お互いがお互いを、また、お互いがいるこの世界全体をも、それぞれの角度から切り取って、鏡のように映し出しているのだ。ぼくの手許にある古い研究書には「単子には窓がないというよりはむしろ単子全体、単子自身が、窓であるとも言うべきであろう」という一節がある(下村寅太郎『ライプニッツ』)。窓ガラスに景色が映るように、ぼくたちはモナドとしてお互いを、世界を映し出しているのだ。モナドロジー以前に書かれた『形而上学叙説』でもモナドという言葉の代わりに「実体」という言葉を使って、ライプニッツは言っている。「どの実体も、世界の全体のようなもの、神の鏡ないしは宇宙全体の鏡のようなもので、ちょうどみる者の位置にそくしておなじ都市もさまざまに表されるように、各実体は自分なりのしかたで宇宙を表現する[映しだす]のである。したがって、宇宙はある意味で実体の数だけくり返され、神の栄光は、そのわざがまったく異なって表されるに応じて増幅される」。それぞれの雨粒はそれぞれの降る角度に応じて、外の世界をそれぞれ別なかたちで映し出す。雨粒の中の世界と雨粒の中の世界とのあいだ、雨粒の外の世界と雨粒の中の世界とのあいだを行き来することはできないけれど、ひとりひとりのこころの中にそれぞれの世界があるように、ひとつひとつの雨粒の中にもそれぞれの世界がある。鏡のように、窓のように、そしてモナドのように、無数の雨粒はひとつひとつ、それぞれの世界を映しながら今もなお、ぼくの頭上に降り注いでいる。 形而上学叙説 ライプニッツ−アルノー往復書簡(平凡社ライブラリー) ライプニッツは『形而上学叙説』に「各人の個体概念はその人物にいつか起こることを一挙に含む」とも書いている。神の眼から見ればカエサルはルビコン川を渡ることも渡らないこともできたが、神はルビコン川を渡るカエサルを選んだ。カエサルという雨粒はルビコン川を渡る世界を内に宿して、神のもとから地上に降り注いだ。そして神は常に最善の結果をもたらすような選択をする。ユダが罪を犯すことを知っていながら、罪を犯すべきものとして神はユダという雨粒を選んで地上に降らせた。「神はユダが罪をおかすであろうことを予見していたにもかかわらず、ユダが現実存在することを善しとしたのであるから、この悪は全宇宙において十二分につぐなわれ、神はこの悪からより大きな善を導くことができ、要するにこの罪人ユダという現実存在を含む系列こそが、あらゆる可能的な系列のなかで最も完全なものなのだ」。この考え方はライプニッツの生前に唯一公刊された著作『弁神論』のなかで「運命の宮殿」として寓話仕立てで語られたことから有名になった。この寓話はひどく美しい。ライプニッツ研究の碩学イヴォン・ベラヴァルのもとで学んだある留学生は、のちにこう回想する。 マルセル・シュオッブ全集(国書刊行会) 「ベラヴァル先生は逸話を好んで披露されたが、なかでもライプニッツの『弁神論』の最後のほうに出てくる「運命の宮殿」の話を先生が語り直されるのを聞くのを私は好んだ。セクストゥス・タルクィウスはリウィウスの『ローマ建国史』に名を残す悪者であるが、『弁神論』では「運命の宮殿」にあって善良なるものとしての生涯も含めて、さまざまな可能世界が上演されるのを目の当たりにする」(千葉文夫「モナドの鏡」『マルセル・シュオッブ全集』栞文)。神の眼前には可能世界、つまりありうべき全ての世界がひとつひとつ映し出されている。セクストゥスが悪人となる世界、セクストゥスが善人となる世界、そのどちらでもない世界……「現実」としてたったひとつが選び出される以前の無数の世界たち。それを見つめる神の愉悦は、ひとつひとつの雨粒がそれぞれの内に世界を映し出し、乱反射しながら降るのを眺めるぼくたちの愉悦に似ているかも知れない。 しかしこの美しい寓話は、楽天論として批判に晒されることとなる。無数にきらめく世界からはいずれ、神の手によってたったひとつの現実世界が選び出される。そしてその世界には「より大きな善」につながるとはいえ、個々の「悪」はやはり確実に存在する。世界全体としては、神の視点からは「より大きな善」につながるからと言われて、ぼくたちは目の前の悪に対して納得することができるだろうか。ライプニッツの没後のことだが、リスボンの街を大地震と大津波が襲い、おびただしい数の死者や被災者が出た。彼らを前にして、それでも「神はこの悪からより大きな善を導く」などと言って澄ましていられようか、というヴォルテールの叫びは現在のぼくたちにとって、あまりにも重い。 降り続く雨音の向こうでかすかに、どこかの家のラジオから懐かしい歌が聞こえてくる。 「晴れたら靴をはきかえよう、電車に乗ってゆられていこう。晴れたらずっと歩いていこう……晴れたらきっと何でもできる……晴れたら、そうよ、何でもできる……」(國府田マリ子「雨のちスペシャル」)。 雨はまだ、当分やみそうにない。