第11回 一輪の花の幻――体験と言語 吉田 隼人(よしだ・はやと) 書物への旅(第1期) 2015.10.09 一九六三年の初夏、私はLSDを服用した。 そして数時間にわたって、一輪の薔薇を見た。 (中略) 私は、薬が効いている間じゅう、一輪の薔薇を見続けていた。 しかも、薔薇しか見なかったのである 「薔薇宇宙の発生」『現代詩文庫 多田智満子詩集』思潮社(1) (1)『現代詩文庫 多田智満子詩集』(思潮社)【絶版】 この簡潔な、それでいて有無を言わさぬ静かな迫力にみちた文章をもって、詩人・多田智満子は服薬実験のいきさつを語り出す。「それはたえず旋回しながら開花をつづける世界そのものであって、薔薇の他には何もなく――わずかな背景もふちどりさえもなく、見えるかぎり一輪の薔薇しかないのであってみれば、森羅万象はその一輪の花に含まれているとしか考えようがなかった。そして私はその世界に『薔薇宇宙』という名を与えた」と言うように、詩人はこの体験を「薔薇宇宙」という表題のもと詩篇にまとめようとする。「それはまさに可視的な形而上学であり、薔薇であるところの世界であると同時に、薔薇であるところの世界観であった」。 しかし詩集『薔薇宇宙』の最後を飾ることとなった詩篇に対して、詩人は不満を隠しきれない。「私はその詩が原体験の近似値であることを期待したのだが、出来上った作品は私の体験した薔薇宇宙のパロディーにすぎなくて、私は自分の作詩の拙さを棚にあげて、その後しばらくの間、言語に対する徹底的な不信に陥ってしまった。あらゆる言語表現はパロディーに終わる他はない、と」。だが詩人は、その「その前では言葉はあえなく敗退」するしかない極限の体験を前にして、詩について、言語について原点に立ちかえる。「しかし、視点を変えてみれば、言語とはまさしくこうしたものなのだ。言語活動とは、思考のすべてを明るみに出すわけではなく、必然的に、表現されない部分を影の中に残しておくものなのだ。これは、考えてみれば詩学の初歩ともいうべき自明の理なのであった。薔薇宇宙を詩の形で表現しようとしたのは、私の初心者的な誤りであったのである。詩はふつう用いられるような意味での表現でないから。つまり、詩は伝達の手段ではないからだ」。 べつだんドラッグを服用せずとも、たとえば「死」のような極限の体験について考えてみれば、体験を言語に移すことの困難、いかなる言語表現も体験そのもののパロディにしかならないということは、そう理解しがたいことではなかろう。そして、そこから改めて出発する者こそが詩人なのである。「さきほどのべたように、私は、あらゆる言語活動はパロディーに終る他はないと思い込んだのだが、その性急な断定は正当でもあったし、また間違ってもいた。つまり、言語の限界を突きとめた(と思った)点では正しかったのだが、ポエジーというものが、他ならぬその言語の限界そのものを逆手にとるべきものだということに思い至らなかった点で、間違っていたのである」。 このあと、『鏡のテオーリア』(ちくま学芸文庫)(2)や『魂の形について』(白水uブックス)(3)でもその博識ぶりを遺憾なく披歴してくれたように、詩人は自身の体験した「薔薇宇宙」を、あるいはボルヘスの短篇「アレフ」に登場する奇妙な球体に、あるいはダンテ『神曲』に描かれた天国の情景に、はたまた「華厳経」にあらわれる「蓮華蔵三千大世界」に、次々と例を挙げてたぐえていくのだが、こうなるともう僕の手に負えなくなってくる。ただ詩集『薔薇宇宙』の末尾を「私の骨は薔薇で飾られるだろう」の一行で締めくくった詩人が言葉の限界にあって見たのが、ただ一輪の花の幻だったということだけを心に留めておけば充分だろう。 (2)鏡のテオーリア (ちくま学芸文庫)【絶版】 (3)魂の形について―エッセイの小径 (白水Uブックス)【絶版】 ドラッグ体験を言語表現につなげた詩人や文学者は数多い。多田智満子の体験に対してよく引き合いに出されるのは『みじめな奇跡』の詩人アンリ・ミショーだが――ちなみに、この著作から「千のナイフ」(4)という表現を採って自身のファースト・アルバムの題にしたのが坂本龍一であった――、サルトルやウィリアム・バロウズといった現代の文学者はもちろんのこと、もっと時代を遡れば『阿片常用者の告白』(岩波文庫)で阿片チンキによる幻覚体験と苦痛を語ったトマス・ド・クインシーがいるし、由良君美『椿説泰西浪漫派文学談義』(平凡社ライブラリー)(5)によれば、ド・クインシーの友人ながらこの著書を認めなかったロマン派の大詩人コールリッジの作品にも、やはり阿片によるヴィジョンの影響が見られるという。もっともド・クインシーの眼前にあらわれたのはまず、ピラネージが熱病の幻覚をもとに描いたという広壮なゴシック式「建築」のヴィジョン、次いではコールリッジの代表作「老水夫行」(『コウルリヂ詩選』岩波文庫(6))にもみられる無気味な「水」――その水面には罪悪感の発露か、無数の哀訴し憤怒する人々の顔があらわれる――のヴィジョン、最後は当時のヨーロッパ人にとって憧憬と恐怖にみちた未知の世界「東方」のヴィジョンであった。彼らはいずれも多田智満子の見た「一輪の花の幻」を見ることはなかったが、しかし体験と言語との間に横たわる不可通約性、言語表現はどこまで突き詰めても体験のパロディにしかならないという難問にぶつかることで、それぞれの文学者としての資質を養っていったのは確かであろう。 (4)千のナイフ(坂本龍一) (5)椿説泰西浪曼派文学談義 (平凡社ライブラリー) (6)コウルリヂ詩選 (岩波文庫)【絶版】 こうした体験と言語の極限的状況を突き詰めて思索したのが、1940年代から60年代くらいまでのフランスの文学者たちだった。たとえば第一次世界大戦後の帰還兵たちが陥った失語症のような状態から言語と体験について思索を開始したブリス・パランは、日本では『ことばの小形而上学』(みすず書房)と『ことばの思想史』(大修館書店)(7)の二冊しか邦訳が出ていない――ちなみに前者の訳は「クイズダービー」でおなじみだった“篠沢教授”こと篠沢秀夫氏である――マイナーな哲学者であるが、サルトル(「往きと還り」『シチュアシオン1』人文書院)やクロソウスキー(『かくも不吉な欲望』現代思潮社/河出文庫(8))から論じられているほか、なんとゴダールの映画『男と女のいる舗道』(9)に本人役で出演し、アンナ・カリーナとアドリブの哲学談義(ここでも言葉が問題になる)を繰り拡げていたりもする。この映画を入門編にしてもよいし、Web上でもパランに関する日本語の言及はきわめて少ないが、それでも千葉文夫「ブリス・パランのことばの哲学」、門間広明「生と言語:ブリス・パランとモーリス・ブランショ」の二本の論文を読むことができる。参考までに引用しておけば、パランはこんな文章を書く人である。「話すとは存在の世界をことばの世界に変え、それゆえに存在の世界を固有の存在のしかたにおいては抹殺させることによって成り立つ。この存在の世界はそれにひとりでに毎瞬間ごとに自己破壊している。つまりその痕跡しか残さずに絶えず消えて行くのだ。愛の瞬間のあとに生まれて来る子供、敗北に続いて来る圧迫、たったいま死んだ人のおちいる沈黙。言語活動は反対にこういうことのイメージを保存し、イメージは永遠の一部をなし、永遠というのはわたしたちの経験の次元のひとつではないのだ」(『ことばの小形而上学』)。 (7)『ことばの思想史』(大修館書店)【絶版】 (8)『かくも不吉な欲望』現代思潮社 (9)女と男のいる舗道(1962) いま引いた一節から何となくモーリス・ブランショの「文学と死への権利」(『現代人の思想2 実存と虚無』朝日出版社/『完本 焔の文学』紀伊國屋書店(10))、特にヘーゲルに言及した有名な箇所を連想される読者もあるかも知れないが、実際、この時代になってようやくフランスではヘーゲルの本格的な受容が始まり、当時の代表的な文学者は軒並みこの「ことば」をめぐる問題に向き合っていたのだった。たとえば先に名前の出てきたピエール・クロソウスキー。彼がいかにして「伝達不可能なもの」を伝達しようとしてきたかという点については、ことし渋沢・クローデル賞をうけた大森晋輔『ピエール・クロソウスキー 伝達のドラマトゥルギー』(左右社)(11)が精緻な分析を見せているから、難解きわまる本人の著作に当たる前に読んでおくのを薦めたい。日本からフランスへの政府給費留学生第一号として渡仏し、そのまま東大教授の職をなげうってフランスに棲みついてしまった哲学者・森有正もあるいは、この時代のフランスにあって「言語」の壁にぶつかりながら「体験」や「経験」をめぐる思索を展開した一人と言えるかも知れない。 (10)ブランショ『完本 焔の文学』紀伊國屋書店 (11)大森晋輔『ピエール・クロソウスキー 伝達のドラマトゥルギー』(左右社) また、長らくフランス文壇に黒幕的大御所として君臨し、かの有名なポルノ文学『O嬢の物語』(河出文庫)(12)の作者ポーリーヌ・レアージュではないかと噂されてきたジャン・ポーランの『タルブの花』(晶文社)(13)は、この分野の古典ともいうべき名著ながら、その取っつきにくさのため未だ充分に研究されてきたとはいえない。邦訳も長らく入手困難な状態が続いていたが、現在はモーリス・ブランショの論考「文学はいかにして可能か」他二篇と内田樹による解説を付した『言語と文学』(書肆心水)(14)で読むことができる。『タルブの花』という謎めいた表題は、フランスの都市タルブにある公園の、その入口に掲示された次の一文に由来する。「花を手にして庭園に入ることを禁ずる。」 ポーランの晦渋な文章を敢えて僕なりに要約すれば、次のようになる。すなわち、タルブ市の公園が花の持ち込みを禁じたのを、ポーランは当時の文学が、それまでの詩や戯曲、小説において当たり前のように用いられていた紋切り型の修辞、常套句を排除したことになぞらえている。文学上のレトリック、言葉の綾、そういったものに彼は「花」を見たわけだ。そしてこの紋切り型という「花」を排除しなければ「言語」は「体験」に近付けないという姿勢を「恐怖政治(テロル)」、そうした姿勢をとる文学者たちを「テロリスト」と、ポーランは呼ぶ。この「テロリスト」「恐怖政治」を単純に批判しているわけでもないというのがこの本の難しいところなのだが、そういうことは賢明な読者諸氏それぞれの感性にお任せしてしまって、僕はただ、ポーランもまた体験を前にした言語の限界に身を置いたとき「一輪の花の幻」を見た一人だったと付記するにとどめよう。「ともあれ、タルブの娘たち(や若い作家たち)が薔薇やひなげしを一輪たずさえたり、ひなげしの花をひと束かかえていたりするのをみるのは心地のよいものであろう」(『タルブの花』)。 (12)『O嬢の物語』(河出文庫) (13)『タルブの花』(晶文社)【絶版】 (14)『言語と文学』(書肆心水) ポーランが見たのと同じ『タルブの花』を見ていた文学者がもう一人、同時代のフランスにいたのではないか、という議論を展開しているのはコロラド大学で仏文学を講じるエリザベス・アーノルド=ブルームフィールドの『ジョルジュ・バタイユ、テロルと文芸』(Elisabeth Arnould-Bloomfield ; Georges Bataille, la terreur et les lettres)の第五章「非=知の花:バタイユとポーラン」だった。この本は邦訳がないし、フランス語の学術書を紹介する能力も紙幅も僕には欠けているので、これ以上の紹介は勘弁してもらうとして、その代わりに、バタイユが言語と体験のせめぎあう限界点で見た「一輪の花の幻」に触れた文章として、『内的体験(平凡社ライブラリー)』(15)の訳者・出口裕弘がその訳者あとがきに寄せた一節を紹介しておきたいと思う。出口は、『内的体験』の前半に「ある花の香りがさまざまな無意志的記憶に充たされていれば、その花の優しさが瞬時にして私たちに頒(わか)ってくれる秘密の、その胸苦しさのうちに、私たちはひとりでに花の匂いを嗅ごうとして歩みをとどめるだろう。この秘密とは、内的な、沈黙の、測定不能の、赤裸の現存にほかならない」という一節が置かれ、またその末尾が「私の手は一本の花を取ってそれを唇へ持ってゆく」と結ばれ、さらにラテン語で「満テル手モテ百合花ヲ与エヨ(Manibus date lilia plenis.)」と題した詩篇まで配されていることに着目し、この書物の「哲学的様式」に惑わされて「教師めいた読み方」をしないために言う。「『内的体験』は花の香りにはじまり、花の香りに終わる、と覚悟したほうがいっそ透徹した読み方ができるかもしれない」。そして『内的体験』の冒頭と末尾に配された「一輪の花の幻」もまた、体験を言語に移すことの不可能性に向き合ったところで初めて咲き匂うものだと出口は続ける。「花の香りの、沈黙の、測定不能の赤裸の現存を、バタイユは脳のしびれるような瞬時の内的燃焼としてしばしば体験することができた人なのだろう。その点、羨望をそそらずにはすまぬ人物である。だが、その『内的体験』を口伝しようということになれば? まして、文字言語によって他者に伝えようということになれば? 沈黙の、測定不能の赤裸の現存を、言葉によって他者と共有しようということになれば? これ以上の背理はありえないはずではないか?」 (15)内的体験―無神学大全 (平凡社ライブラリー) しばしフランスの話が続いたが、言語の限界に咲くこの「一輪の花の幻」を見た人々の中から、日本の文学者を二人ばかり紹介してそろそろ話を締めくくりに向けていこう。一人目は田中小実昌である。彼の父・田中種助(のち遵聖)は独立系のプロテスタント教会の牧師として渡米して学ぶなどしたのち、最終的に十字架も何もないただの家を教会として「アサの会」という奇妙な宗教団体を立ち上げた人だった。集会でも「アーメン、アーメン、アーメン」「ジュウジカ、ジュウジカ、ジュウジカ」と唱え続けるというちょっと異様な、今だったらカルト教団として世間を騒がせそうな団体と、それを立ち上げた父のことに田中小実昌は生涯こだわり続け、『ポロポロ』(中公文庫)(16)や『アメン父』(講談社文芸文庫)(17)といった小説を残した。この父親も牧師になりながら身体に支障を来すレベルで苦悩したのち、長男・小実昌の誕生直後に「神の御臨在」にあずかるという回心体験を経たかと思えば、その二年後に「絶望の極致にありて十字架上の主の御支えを強く感ぜしめられる」など、たびたび言語に絶する体験をしている。だからこそ祈りに際して「アーメン、アーメン……」としか(この言葉は小説『ポロポロ』だと脚色して「ポロポロ……」に変えられている)言葉を発せなくなったのだろう。だが、普通なら神秘主義とか神秘体験とか呼びたくなるようなこの体験を、小実昌はあくまで「ぶちあたられる」「ぶつかる」「つらぬかれる」などと実感に即した言葉でとらえようとし、出来あいの言葉でレッテル貼りすることを拒む。「神秘主義はよく宗教と混同され、ないしは宗教的だとおもわれてるが、神秘主義は神秘主義であって、宗教ではない。宗教は主義なんてものとも無縁だ」(『アメン父』)とか、「これは神秘的体験ではない。神秘的体験をした人もあるにちがいないが、神秘的体験はこれまた神秘的体験で、宗教ではない」(同)とか、そういった言葉が散見される。 (16)『ポロポロ』(中公文庫)【絶版】 (17)アメン父 (講談社文芸文庫)【絶版】 (18)『なやまない』(福武書店)【絶版】 そんな田中小実昌には、語り手がひたすら哲学書を読みながら生活を続けていく「哲学小説」と呼ばれる一群の作品がある。特に、少年時代から愛読してきたという西田幾多郎の著書およびそれにまつわる研究書を読み進めながら展開する「西田経」「なやまない」といった小説を集めた『なやまない』(福武書店)(18)は、読者を脅かすような言葉も哲学的創見も全く出てこないにもかかわらず、静かなすごみを感じさせる短編集である。西田幾多郎の悪名高い「絶対矛盾的自己同一」という概念を、たび重なる肉親の死をはじめ悲哀に満ちた西田の人生に照らして「つぎからつぎにとんでもないことがおこり」、「かなしんだり、なやんだりしたどころではなかった」、「どうしようもなく、耐えられないまま、それはおこってしまった」、その「あり得ないことがげんにあっている」体験に「心底からぶつかった」ことこそが、論理的に「あり得ない」「あってはならない」ものとしての「矛盾」が自己の根底に実在するという西田の思想を形作ったのではないか、という観点からとらえた「なやまない」は他人事とは思えず、何度となく読み返している。ただここで引用するのはもう一篇の、「西田経」の一節だ。この小説で語り手はケイという女性と一緒に生活しながら、当てもなく西田幾多郎の『哲学の根本問題』を読み進めていく。そこにまた、あの「花」があらわれる。 「土曜日曜は部屋の主が会社がやすみなので、いっしょに外にでかけた。三宮のそごうデパートのよこから、日曜日だけでてるバスで、森林植物園にもいった。まえにはなかった、シンプルなあかるい入口ができ、そこから坂道をくだっていった。この坂のようにあじさいの花がいっぱい咲く。だが、なん年かまえにきたとき、森林植物園の所の、ひんやりくらい山道で見つけたあじさいの花は、目にしみるというより、からだぜんたいにしみとおり、それだけでなく、ぼくとつれのあいだにもしみとおった。ひととひととは身体もべつで、(身体の範囲といったことを考えすぎるのではないか、と西田幾多郎は言っている〈哲学概論〉)個体と個体はちがってるからこそ個体だが、ぼくとつれはこのあじさいの花を見て、同時に息をつめ、このあじさいの花が、ぼくとつれとをつらぬきとおし、ふたりはひとつになったみたいな気がした。ひとつになったといっても、個体と個体であることにはかわりなく、逆に、ひとつになったみたいなところで、ふたりはちがうニンゲンだということが、あざやかにわかったみたいだった。西田幾多郎が『哲学の根本問題』のなかで、個体が個体と対立するところに、はじめて個体があり、それだけではなく、個体が個体を限定し、そこにまた一般者もあらわれるみたいなことを言ってるのは、こんなことにもカンケイがあるのだろうか。山道のしとった土の崖にさいている、直径三センチぐらいの、ちいさなあじさいの花だった」(「西田経」)。 長い引用になったけれど、言葉の限界にぶちあたるような体験、それを神秘体験と呼ぶのは著者の本意ではないのだろうけれど、ともかくその限界ぎりぎりの体験にあって初めて、やはり著者の前にも「一輪の花の幻」がたちあらわれてきたのだということだけは、少なくとも、了解していただけたのではなかろうか。参考までに付け加えておけば、『モイラ言語 アリストテレスを超えて』(東大出版会)『パルメニデス』(青土社)ほかの著作で、叙事詩の言語であった古代ギリシャ語を「探求」の言語、〈こころ〉言語へと「改鋳」したパルメニデスやアリストテレスを研究した哲学者・井上忠は田中小実昌と旧制中学いらいの友人で、互いの著作への言及も多い。特に「パルメニデスは完璧に完成された玻璃宮(球)殿である。それに比べれば、プラトンは、造りかけては放置された硝子の塔の数多な残骸とも見え、アリストテレスは広大な野外運動場のようにも感じられる」と荘重に書き出される『パルメニデス』は晩年になって提出された博士論文ということもあり容易に読めるものではないが、覗いてみることをお薦めする。 (19)『夏の花』(新潮文庫) 「私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を歩いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた。 炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて来た線香にマツチをつけ、黙礼を済ますと私はかたはらの井戸で水を呑んだ。それから、饒津公園の方を廻つて家に戻つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆弾に襲はれたのは、その翌々日のことであつた」(『夏の花』)。 付け加えておけば、原爆というこの極限の「体験」には前述のバタイユも強い関心を寄せ、ジョン・ハーシーのルポルタージュ『ヒロシマ』(法政大学出版局)(20)への書評というかたちで『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店)(21)を発表しているほか、これを膨らませて『内的体験』にはじまる自身の哲学的主著群「無神学大全」中の一巻にヒロシマ論を加える構想も有していたという。そんな極限の「体験」に、遂には押し潰されるようにして自ら命を絶ってしまった原。その碑銘には、次の詩が刻まれている。 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻 (20)『ヒロシマ』(法政大学出版局) (21)『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店)