第13回 街の本性が現れるギラついた夏の陽 新納 翔(にいろ・しょう) Peeling City 2016.08.31 一体季節感というもはどこへ行ってしまったのだろう。そんな事を毎年のように言い続けていると近いうちに国語辞典からも季節という単語自体が消えてしまいそうだ。そのアクシデントにほぼ都会の大半の人は気付かずに、同じような日々を終焉に向かってただ淡々と過ごしているに違いない。 渋谷のスクランブル交差点で街の変化に多少ながら思いを馳せている人はどのくらいいるのだろうか。皆次来た時は見ることができないかもしれない景色の前で、スマートフォンの仮想空間に生きている。そりゃその人の勝手なんだけど、私はそういうのは勿体無いと思うのですよね。こっちはポケモン集めが流行る前からずっと景色のコレクションをしているわけですから。 今年の夏は例年よりも仕事の撮影が多くスケジュールもパンパンであったが、時間をみつけては夏の太陽が照りつけるギラギラの国道1号線を何回か撮りに行った。これは私にとっての栄養補給なのである。 アスファルトからの照り返しのせいか、体感温度はもの凄く暑い。1時間も歩いていると体力的なものよりも精神的な疲れが来る。「こんな事、誰からも頼まれていないのに」と一人行き場の無い文句を言いながらそれでも歩き続ける。それと同時に感じる満足感。アスファルトを貫通して大地と繋がるようなそんな感覚。 最近また「道脈」の撮影を始めている。モータリゼーションによって廃れていく街、かつて街道と言われた場所に、点と点を結ぶかのように街ができそして消えていく。その変化はゆっくりと見せかけてとてつもなく速い。このシリーズを撮り始めた過去がとても前の事のように思えてならない。僅かな時間で二度と見る事ができなくなってしまう現実。一体誰にとって価値の有る景色かと問われれば分からないとしか言えないが、それでもせめて写真に残しておきたいのだ。おそらく今見ている景色もやがてそうなるのは必至だから。(2005年 写真日記より) とりわけ何があるというわけでもない。大概の人からすれば「何も無い」という景色かもしれない。国道沿いの写真は「道脈」と名付け、今まで3回個展を開催したが、その後の写真を通してみても、おそらく私の写真の根幹なのだろうと思う。 道脈作品(http://nerorism.rojo.jp/route1.html) この道を通るのはこれで何度目だろうか。国道1号線を本格的に撮り始めてもう12年になる。ちょうど干支が一回りしてしまった。毎回どこかしらの景色の変化を見つけてはコレクションに加える。 大学で写真を始めた私は定期券内という理由で国道沿いのスナップを始めた。ただ偶然にもその空気感が非常に気持ちが良かったのだ。重力が消え、なにもかも軽くなったような浮遊感。撮ることよりも、そこに「いる」ことを求めていたのかもしれない。今でもそんな気持ちがどこそかにあるのは否めない。 写真という言い訳を武器に、私はただそこにいたいだけなのだ。 私は一年を通して夏が一番「写欲」が出る。無性に撮りたくて仕方なくなるのだ。それこそ撮り始めの頃は自分の初めてのカメラである祖父の遺品だったCanonの古い「ⅣSb」というカメラを持って延々と歩いていた。 ワリンパスワイド、ローライフレックス、ヘキサー、ライカ、トヨビュー、F3・・・共に歩いたカメラは挙げれば切りがない。 いつだったかとっさに撮ろうと小型の「TC-1」というカメラを被写体に向けたつもりが、手からすっぽ抜けて5メートルほど先のバス停で3度アスファルトの上をバウンドした。あの時の光景は今でもスローモーションのように鮮明に覚えている。 夏という季節が好きなのは、撮っている場所の選択にも表れているようにきっと乾いた街が好きなのだろう。ドライな街を隅々まで照らすギラついた夏の光は、もっと見たい、もっと見たいという欲求に応えてくれる。 乾いた街は、そこに生きづく人たちの存在から乖離し、その関係性を絶とうとしているようにさえ感じる。そういう意味において夏こそが一番「街の本性」が直に感じ取れる季節なのかもしれない。もうすぐ秋がやってくる。また街の本性が暗い影の中に隠れる季節がやってくるのだ。 次の記事へ 前の記事へ 『Peeling City』記事一覧 連載コラム一覧に戻る