第3章 フランス語との最初の出会い Beatrix Fife “Bix” テープレコーダー (日本語) 2019.02.19 第3章 フランス語との最初の出会い 2棟の大きな校舎の間にある校庭は、建物に接していない部分はフェンスで囲まれていた。このパリ郊外の新しい学校は巨大で、どのクラスにも色々な国からきた子どもたちがいる。シスターも神父さまもおらず、先生方はお母さんやお父さんと同じように普通の服を着ていた。生徒たちの制服もエプロンもないけれど、ただ同じ教室にバラバラの年の子たちがいるのはローマの学校のようだった。 フロールは小柄な女の子で、ピンクと白のプラスチックでできた大きな花の形のイヤリングとカラフルなネックレスをつけ、指にはいくつも指輪をはめている。彼女がこうした飾りを身につけていることにも、そして名前がフロールということにも、私は魅了されてしまった。彼女は本当に花のようだと思ったのだ。それに、イタリア語の「花」と言う言葉「フィオーレ(Fiore)」が、フランス語では「フロール(Flore)」に変わり、スペルの「i」が「l」になるのに気づいて面白く感じた。フランス語の最後の「e」は発音しないことも合わさって、それが言葉にとても微妙な変化を生んでいる。この最後の「e」は、まるで何か奥深い意味をはらんだ小さなクッションのようだ。なにしろほとんど聞き取ることができないのだから。その言葉に、ほんのわずかな区切りを置く感じだろうか。 ときおりフロールに話しかけようとしたけれど、お互いに言っていることがわからなかった。彼女は肩をすくめ、微笑んだ。私たちは先生が黒板に書く単語や文章を写そうとしていた。 アルファベットはローマの学校と同じだったけれど、発音や文字の順番はイタリア語で習ったものと違っている。図画工作のように手を動かす科目はそう多くなかったし、言われていることもわからなかったから、チャイムが鳴るのを待ち始める。校庭に出て、イタリア人の友達たちと早く一緒に遊びたかった。 パリに向けて出発する数カ月前に、ローマで私が書いたイタリア語。 「私の小さな妹と私。私は妹が大好き。」 校庭のあちこちで皆がイタリア語で話しているから、イタリア人の新しい友達を見つけるのは簡単だ。たちまちのうちに、全クラスのイタリア人が集まった大きなグループができあがり、みんなでビー玉遊びをし始めた。毎朝、学校に行くと、遊び時間が楽しみで、通学かばんにちゃんとビー玉が入っているかを確かめたものだ。砂だらけの校庭で、みんなで穴や障害物のコースづくりに奮闘する。ビー玉は、他の子どもたちと仲良くなるきっかけになった。フランス語の「ビー玉」は、「Agathe(ビー玉やメノウ)」や 「Oeil-de-boeuf(牛の眼)」 というが、これは私が自分で訳そうとして学んだ最初のフランス語だ。イタリア語がわからないけれど、私たちと一緒に遊びたがっている子たちに訳してあげるためだ。この言葉を通じて、そしてそれを訳したことで、ほかの子どもたちみんなとつながりをもてた気がした。兄や弟もビー玉仲間で、それぞれ習ったフランス語を家にもち帰り、ノルウェー語やイタリア語、そして英語と混ぜて使い始めた。 お母さんとお父さんが私たち家族の言葉として決めていたのはノルウェー語だったけれど、友人や親戚と会うときや家に招くときには、すぐにその相手の言葉に変えることになっていた。それがルールなのだ。 パリに着いて数カ月後、お父さんと弟と妹とパリ近郊の森にて。 クリスマスまでには、大人より子どもたちのほうがもっとフランス語がよくわかるようになっているはずだと言われていたから、兄も弟も私も、フランス語が話せるように全力をつくそうと決心していた。学校に行き始めて最初の何か月かの間、3人で競争することにして、教室で言われたことを理解できるようにがんばったけれど、でもこれは本当に難しかった。先生が話していると、つい窓の外の鳥に目をやってしまう。ほかの子たちが先生の言葉のあとに何かをすると、ただその後に続いて真似をするのだ。 教室にはもう一人、転入生がいた。ピーターと呼ばれている男の子だ。ときおり彼は外の低い壁の上に立って、私を見下ろしたものだ。この子はイタリア語のほかにもいくつかの言葉が話せたけれど、ビー玉遊びに加わろうとはしなかった。そして、自分は私よりずっと早くフランス語ができるようになると言ってくる。なぜって、私は女の子だからだというのだ。私は、そんなことはどうでもいいと答える。すると、イタリア語の 「ラガッツォ(ragazzo)」は、フランス語で 「ギャルソン(garçon)」(日本語では「男の子」のこと)というと教えてくれて、男の子のほうが学ぶのが早いのだと主張する。私は、そんなことはないと答える。7歳の私が思ったのは、この子は本当は私のことが好きなのだけど、ほかの誰かから習ったばかりの何か馬鹿げたことを口にしているのだということだ。嫌な気分になったけれど、心を強くもって、もっとずっと一生懸命がんばってフランス語を覚えなくちゃと思った。 もう一人の小柄な女の子のマリアは、教室ではしょっちゅう一人でいる。彼女の顔を見ると、ローマの子どもたち、とりわけ祖父のブドウ園で遊んだ子たちのことが思い出された。私たちは、それぞれの言語が入り交じった奇妙な言葉で、身振り手振りを駆使して話していたけれど、それでもお互いに理解し合えた。ある日、私は放課後に彼女を車でおくってあげてほしいとお母さんに頼んだ。お母さんの車がある十字路まできたところで、マリアがここで降りると言った。 私には家は見えなかった。でも彼女は、フランス語で「あそこ」に住んでいると言って、すぐそこに見える場所を指さすのだ。あとでお母さんが、彼女の暮らしているところは、私たちが住んでいるような家ではないのだと言った。 「家に住むことができるのは、とても幸運なことなのよ」と、お母さんはノルウェー語で話してくれた。あの子には優しくしてあげなくてはいけないわよ、とも言われた。「スラム」という言葉を教えてもらったけれど、この言葉は使ってはいけないのだそうだ。それどころか、それについては話してもいけなかった。母によれば、ノルウェー語のその言葉は、口にすらしてはいけないのだという。私は、天使たちや聖人さま、聖母マリアさま、イエスさま、そして神さまのすべてが、大昔に大勢の人たちに親切であったことを思い出した。それからは学校でマリアのことをもっと気にかけるようになり、お菓子をあげたり手をつないだりした。 学校ではフランス語を、家ではノルウェー語をお母さんから習っていた。 「サン=ジェルマン・アン・レーの森にて」のフランス語。 この新しい生活はほんの一時のことで、すぐにローマに戻るのだと思っていた私だけれど、その一方でまた、新しいことや新しい人々、新しいゲームや新しい場所を発見して、それが好きにもなっていた。 新しいことに出会うのが好きになり始めているのに、同時に昔の友達や前の家に戻りたいとも思う——そんな奇妙な矛盾が、私のなかに生まれつつあったのだ。