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第9回 終る世界のエクリチュール

吉田 隼人(よしだ・はやと)

2015.08.11

教育実習の最終日、受け持ちクラスだった一年二組では「土佐日記」の授業がきりのいいところで終わったので、担任の先生の粋な計らいでその一コマは生徒たちから自由に質問を受け付ける時間になった。最初のうちはいちおう真面目な顔で進路のことや勉強のことなど質問していた生徒たちも、先生が何かの用事で席を外したのを見計らって「彼女はいるんですか」とか「同期実習生の××先生と○○先生だとどっちが美人だと思いますか」とか(僕以外の実習生は女子ばかりだった)、羽目を外した質問も飛び出すようになった。そうした質問を苦笑いしながら適当に受け流しているうち、こんな声が上がった。
「今日で世界が終るとしたら、吉田先生はどうしますか?」
背筋がぞくっとした。不意打ちだった。いまは2011年の10月、ここは福島県立福島高校。僕が通っていた校舎は半分が震災の影響で立ち入り禁止になり、この教室があるのは夏休み中に急造されたプレハブの仮校舎である。クラスによっては、授業で生徒を当てるため名簿を繰るとあちこちに空白があり、やがてそれが原発事故の影響を考えて避難した生徒たちがいたことを示すことを知った。学校は内陸にあるから沿岸部の高校のように犠牲者が出るようなことはなかったものの、目の前にずらりと並ぶ四十人弱の生徒たちはみな十五歳の春休みに、あの3・11を経験した少年少女たちであった。そのことに思いを致したとき、この一見すれば何ということはないありがちな質問に、僕はとても答えられなくなった。彼らは、つい半年ほど前、実際に「世界の終わり」を生きてきたのだから。

あのとき、僕は東京にいた。アパートの暗い部屋で一人、ばらばらになった家族ひとりひとりの身を案じながら、小さなスタンドの明かりで本を読んでいた。同じような苦しい時代、「世界の終わり」を生きた先達の生の声が聞きたくて――と言ったら恰好をつけすぎか、もっと情けない、すがるような気持ちで、様々な知識人がその戦争体験を書いたエッセイや自伝、日記のたぐいを掻き集め、毛布にくるまって、目の前の現実から目を背けたいというその一心だけで来る日も来る日もページを繰っていた。

英文学者・福原麟太郎のエッセイ集『命なりけり』(講談社文芸文庫)に収められた「椰子林の中の学生たち」は戦争に翻弄された教え子たちの姿をやさしい、深く悲しみを湛えた眼で見つめている。戦死、戦病死、自殺、さまざまなかたちで命を落としていった学生たちをただじっと見つめている。まだ「無事に卒業できるかも知れないという、空頼みもしていた」昭和十七年、召集令状を受け取ってすぐ日暮里の駅で自殺した杉崎という学生の思い出話は殊に印象的だった。たまたま出来が良かったため保管していた彼の単位論文(今でいうレポートのようなものか)を戦中戦後も大事にとっておき、自分の還暦記念論文集が出るとき「そっとその中へ入れて貰った」という福原の優しさは、教師が先に逝った教え子に手向けうる最大限のものを示して、読む者の胸を締め付ける。実際に僕はこの『福原麟太郎先生還暦記念論文集 近代の英文学』(研究社)という本を持っているが、確かに福原の記述通り、トマス・グレイの詩「墓畔の哀歌」の「あらゆる単語を辞書で引いて、それがイギリスの土語か、ラテン系の外来語であるかを調べ、各行におけるその割合をグラフにして示し、それを材料に哀歌の特質を説明した」、杉崎幸一郎「ELEGY IN A COUNTRY CHURCHYARD」という論文が掲載されている。「読者は聞いたことのない学者だと思ったに相違ない。私が手向けた香華である」という素気ない福原の一文が、却ってその深い悲しみを伝えるようでもある。
あるいはまた、『西田幾多郎随筆集』(岩波文庫)の日記抄や書簡抄。昭和十年の時点ですでに、右傾化していく時勢に巻き込まれ「教学刷新委員」に選ばれた西田は、時流と体制におもねって日本精神やら何やらを振り回す同僚たちを「これらの人が学者顔するのもオコガマシイ」「肩を列するのは不愉快です」と痛罵する書簡を残している。いよいよ戦争という頃になると、学習院や京大での教え子だった近衛文麿首相や木戸幸一内大臣に対して、まさに先生が学生を叱るように遠慮仮借のない批判の文面が並ぶ。昭和二十年の日記では政治家や軍人に「国民を欺くもの甚だし」と憤激し、右派のイデオローグと化していた徳富蘇峰の「日清日露と違って今度の戦争には日本国民が気魄ない」という言葉を引いて「国民が徳富の如き指導者より頭が進んでいるのだ」と苦々しい皮肉を吐いてみせる。西田は敗戦を迎えぬうちに急逝するが、その通夜の場面から書き起こされる哲学者たちの群像劇は竹田篤司『物語「京都学派」』(中公文庫)に詳しい。

その頃、傷病兵として送還された軍の病院で巻紙に『戦中手記』(思想社)を綴っていた荒地派の詩人・鮎川信夫は兵営生活を振り返り、「顔色蒼白にして態度厳正を欠く。音声低く語尾曖昧。総体的に柔弱の風あり」と書類に書かれてしまった彼は「一番手数がかからず認められる」ために「殴られる時は率先して殴られること」を実行する。その絶望的なまでに透徹しきった眼は「兵士」を通して「日本人」のグロテスクな様態をまざまざと描き出している。詩人は戦争の本質を「明らかに兵士は戦争の何たるかを解してゐない。彼らはそんな戦争の目的などといふものは少しも解してゐないし、又解しようなどと決して思はないだらう」と見抜き、「被占領地の婦女子を凌辱し、強制徴発を行ふ人間、その同じ人間が、万才を三唱し、みづからの犠牲的精神に満足しつつ戦死することを少しもおそれぬ忠勇なる兵士なのである」と冷たく書き記す。
『戦中派不戦日記』(講談社文庫)の山田風太郎は係累を失い、働きながら苦学してようやく徴兵を逃れうる医学部に入学する。そこで彼は医学講義と激しさを増す空襲との合間に、まるで飢餓を紛らわすかのように、主として外国小説の翻訳を中心として、尋常でない量の読書を続ける。この日記を綴る山田風太郎は冷静な観察眼を保ちつつも、三月十日の東京大空襲を受けて敵への憎悪を剥き出しにする若者でもある。「この血と涙を凍りつかせて、きゃつらを一人でも多く殺す研究をしよう」とか「一人は三人を殺そう。二人は七人殺そう。三人は十三人殺そう」とかいったつぶやきが、どうしてもつい漏れてしまう。それでも彼の観察眼はそうやすやすと曇ってばかりもいない。八月九日、ソ連の宣戦布告を受けた人々の様子が不思議なリアリティをもって描写される。「予期せぬことではなかったこと。どんな激情的な事実にも馴れっこになっていること。疲れはてていること。――そのためか、みなほとんど動揺しないようだ。『とうとう、やりやがったなあ』と鈍い微笑の顔を見合せるだけである。例の『運命を笑う』笑いにちょっと似ている」。
同じ八月九日を、『中井英夫戦中日記 彼方より〈完全版〉』(河出書房新社)も捉えている。「日ソ開戦。はじめきいたのは、一看護婦の口からだつた。みんな妙に――明日朝刊で報道されるやうに――『来るべきものがきた』といふ顔だつた。『これやで――』両手をあげてみせ乍ら関西弁のきれいな一等兵が入つてき、みんなわらつた。かうして、日本は確実に滅びの門をくぐつた」。旧制府立高等学校(のちの東京都立大学)から学徒出陣で中井英夫は幸運にも市ヶ谷の陸軍参謀本部という戦争の中枢に配属されたため、いわゆる兵隊生活も命がけの戦闘も経験せずに済んだ。植物学者として枢要な地位にあった父親・中井猛之進のお陰もあったのだろう。青年・中井英夫は、三笠宮など軍人皇族も勤務するこの戦争遂行の総本山にあって愚かな戦争を呪い、軍人を嫌悪し、日本人を憎み、敗戦を願い、戦争賛美の詩をくそみそにけなし、最愛の母の死をひたすらに嘆く日記をひたすらに書き続けた。先だって物故された出口裕弘氏は、戦争末期の軍中枢に出現した奇妙な「無風地帯のような静寂」の中でこのような精神を保ち、徹底した戦争への呪詛と軍人への嫌悪を日記に書き続けた中井英夫の特殊性にふれて書いている。「私は単に彼が、市ヶ谷の参謀本部という理解しにくい職場にあったから特殊と呼ぶのではない。もし現場の殺人集団のなかに放り込まれたとしたら、敵にではなく、味方の手で殺されるほかなかった青年がそこにいるという意味で特殊なのである」(『楕円の眼』潮出版社)。彼の徹底した「非国民」ぶりを自身の戦争体験、そしてこの日記の公刊当時まだ記憶に新しかったオイルショックの経験と引き比べ、出口氏は半ば感嘆し半ば呆れつつ「いつになっても、『非国民』として一貫することは命がけの事業であるようだ」と評した。ちなみに中井の日記は終戦の四日前、八月十一日で途絶えている。彼は腸チフスで昏睡し、八月十五日を知らぬまま九月になってようやく意識を回復したのだった。

この日本の敗戦をもって終結する第二次世界大戦の開戦に、ヨーロッパで接したのが批評家の中村光夫だった。そのあたりの経緯をほぼリアルタイムで綴ったのが彼のパリ留学記『戦争まで』(中公文庫)で、どうでもいいことだが、僕の手許にあるこの本の扉には中村光夫その人の手になるらしいボールペンの字で献辞と署名が書かれている。中村真一郎が「ファンタスチックな悪筆」(『私の履歴書』ふらんす堂)と評した彼の字を、それでもなんとか解読してみると「恵存 ××君 Oct. 1982 光夫」と読める。
第二次大戦の勃発で留学を一年ほどで切り上げねばならなかったその後の経緯は、後年になってから東京新聞に連載された自伝『憂しと見し世』(中公文庫)で読める。同じ自伝でも留学前の文学修業時代を書いた『今はむかし』(中公文庫)とは打って変わって、こちらは戦争で少しずつ息苦しくなっていく日本の姿が、年月を経たためか、あるいはこの書き手の特性ゆえか、淡々とした、しかしそれだけに凄みのある筆致で綴られている。外務省の嘱託職員を経て筑摩書房の立ち上げに参加し、同時に「文学界」などで新進評論家としての地歩を固めていく歩みや自身の結婚、それに小林秀雄、吉田健一といった文士たちとの交友を描くかたわら、文明批評家としての鋭いまなざしが時折、顔をのぞかせる。
「自由主義は、マルクス主義と違って、本来あいまいにしか定義できないものです。したがって、そのレッテルは誰にも簡単に貼れるので、それが罪悪とされるようになったのは、一部の御用思想家以外は誰でも、当局の意のままに犯罪者として拘引できるということです」。
「よく会議の席上などで一番馬鹿な意見が、誰も反対できない事情があるために通ってしまうことがありますが、当時の社会に横行したさまざまの『理念』はこれを大規模にしたものでした」。
「むろん戦時中であれば、物質的、精神的な不便、不自由を我慢するのが、当然かもしれませんが、当時の軍人たちのやりかたは、戦争をまず勝手に起しておいて、これを口実にして政権を壟断し、国内を統制し、支配しようとするので、そのために平和の到来を何より恐れて、戦争を神聖化し、永久化しようとする傾きさえそこから生れました」。
昭和二十年、戦争がもたらしたひょんな機会から中村光夫は碩学・呉茂一からギリシャ語を習うことになるが、中村よりもう少し下の世代に当たる加藤周一は東大医学部を卒業して医師として勤務する傍ら、文学部でラテン語の講読に出席し、満員電車で暇つぶしにその品詞の活用をもごもごと暗誦していた。加藤の自叙伝『羊の歌』(岩波新書)によれば、戦時下にあってなお英国留学中に仕立てた背広姿で講義を続けたラテン語の神田教授は一九四四年六月、連合軍によるノルマンディ上陸の日、ウェルギリウスの講読を終えて帰り支度をしながら「さあ、これで、敵も味方も大変だ」と言ったあと、こう付け足したという。「敵というのは、もちろん、ドイツのことですよ」。
戦後すぐに発表されて評判を呼んだ福永武彦・中村真一郎との共著『1946・文学的考察』(冨山房百科文庫)にも加藤の筆になる「一九四五年のウェルギリウス」という文章が収められており、それによると、山田風太郎が殺気立って敵を殺せと日記に綴ったのと同じ東京大空襲のもとで、彼は燃えさかる東京の街と逃げまどう人々を眺めながらウェルギリウス「アェネーイス」のトロイ落城のくだりをラテン語で思い出していたという。なんだか出来過ぎたエピソードだが、この文章にはさらにオチまでつけられていて、終戦直後、K軍港(恐らくは原爆被害調査団の一員として向かった広島の呉を指すと思われる)で「M大佐」と交わしたというこんな会話が最後に添えられている。
「――君は爆撃の間、東京にゐたのか、と大佐は私を顧みて云つた。
――さうです、東京にゐた。
――B29が頭上にゐた時君は何をしてゐたのか。
――ヴァーヂルを読んでゐた、トゥロイ落城の條りを、と私は答へた。(……)我が意を得たと云ふやうに、大佐は卓抜な機智を以て言下に応じた。
――地獄を案内する者はヴァーヂルだ、と」
それまでずっとウェルギリウスと表記していたのがここだけ「ヴァーヂル」と英語読みになっているのをみると、この軍人はアメリカ人とおぼしい。加藤にしてみればわざわざそう断らなくとも、ウェルギリウスの話をされて即座にダンテの『神曲』を踏まえた返答のできる機知をもった「大佐」が日本の軍人であるわけがない、というのは自明のことだったのだろう。

その加藤周一が「戦争中の日本国に天から降ってきたような」と形容した当時の東大仏文科助教授・渡辺一夫にも、官憲の眼をおそれてフランス語で書かれた『渡辺一夫敗戦日記』(博文館)がある。先に出てきた中村光夫『憂しと見し世』に、開戦直前ごろ渡辺に「何かいいニュースはありませんか」などとうっかり聞くと、「いいことなんかあるもんですか。この頃は何か嫌なことを聞かない日は、いい日だったと思っています」と苦り切った調子で返したというぐらいの人だから、当然その『敗戦日記』も陰鬱な色彩に満ちている。東京大空襲の五日後、苦心して翻訳したフランス・ルネサンス期の大作家ラブレーの『パンタグリュエル物語』の印刷所が全て焼けてしまったという虚脱感の中で、渡辺一夫は憎々しげに、ここだけは日本語で書いている。「日本は何も慾しない、恐ろしく無慾である。立派な世界人を産む国民となることすら放棄してゐる。滅び去ること。これが唯一の希望であり念願らしい」。また戦争もいよいよ大詰めとなった七月十一日にはこうも書く。「自殺を考える。今まで日本人を買いかぶっていたが、ふとそれが、追いつめられ破れかぶれになった、醜怪な獣のように思える。人間らしさの片鱗すら持つことを許されていないのだ。軍部の考えを是認する知識人さえいる。彼らの古臭いイデオロギーが、祖国の滅亡を招こうとしている」。……これは流石に日本語で書くわけにはいかなかったのだろう、原文がフランス語で書かれていることは口絵の写真版を見るとわかる。フランス語による最後の記述は終戦直後、八月十八日の次の一文である。「Joie d’écrire quelque chose d’intime dans ma langue maternelle. Je commence.」(母国語で、思ったことを何か書く歓び。始めよう。)

最後の『渡辺一夫敗戦日記』だけは、実は震災のときに読んだものではない。今年の七月十五日、安保関連法案の強行採決の様子を見届けてから用事を済ませに大学へ行き、その帰りに古本屋で買ってきたものだ。ところがこの本は「敗戦日記」だけでなく、他にも関連するエッセイをいくつか収めていた。そしてそのうちの一篇「二十年後のめぐり会い」は震災直後に別の文庫本(渡辺一夫『白日夢』講談社文芸文庫)で読んだときのことをはっきりと覚えている、恐らくこれまで紹介してきたどの本よりも忘れがたい文章だった。
エッセイの筋はごく他愛ないものだ。戦争末期、貴重な研究文献を空襲による焼失から救うため、東京から松本へ「疎開」させた書物のうち戦後の混乱に紛れて返ってこなかったうちの何冊かが、一九六一年になってたまたま発見され、手許に戻ってきたというだけの話である。ただ、その文章のあとに註釈として、一九七〇年になってからもう一冊『La Poésie priapique』という「あまり『厳峻な』書物ではない」ものが返ってきた、という一文が付されている。僕はこのpriapiqueという単語の意味がわからなかった。
この単語一つの意味を知らなくともこのエッセイを読むうえでは大した差し障りはないし、読み飛ばしてしまってもいいような箇所なのだが、気が付くと、僕は毛布にくるまって「これからどうなるんだろう」と半分べそをかきながらうずくまっていた寝床を離れ、その一瞬だけは肌寒さも現実の不安も忘れて、重たいフランス語の辞書を手にとって「P」の頁を黙々とめくっていた。そしてふと我に返って愕然としたのだ。むかし受験英語で習ったfind oneself doing「自分が(いつのまにか)~していることに気付く」という表現そのままに、明日をも知れぬ家族と故郷の運命に不安のどん底で震えていたはずの「自分が(いつのまにか)辞書を引いていることに気付」いたわけである。
いま現実に起こっているカタストロフィに対して何の役にも立たず、恐らくは文章を読むうえでもさほど重要でないようなたった一つのフランス語。にもかかわらずその一語に遭遇したとき、自分は利害も不安もすべて忘れて、ほとんど無意識のうちに寝床を這い出してまで辞書を引いてしまうような人間であるということを、このとき心の底から思い知らされた。大袈裟に言えば、僕はそういう「業」を背負って生れてきたのだと。
……このとき、将来がどうなるかまったく「一寸先は闇」の状態にありながら僕は勝手に、自分はこういう星のもとに生まれたのだと決めつけて、家族のことも、震災のため未定になっていた教育実習のことも忘れ、とにかくやれるところまで学問というやつにかじりついてみようと、周りからしてみればずいぶんハタ迷惑な決断を下したのだった。そして約半年後、秋になってようやく実習生として教壇に立ったとき僕は既に、大学院仏文科の合格通知を受け取っていたのである。
ここにきてようやく僕は冒頭の一生徒から受けた質問、「今日で世界が終るとしたら、吉田先生はどうしますか?」に答えることができる。
「いつもと変わらないね。たぶん辞書を引きながら、本を読んでいると思う。僕は業が深いんだ。ひょっとしたら、その瞬間は世界の終わりだということさえも忘れているかも知れない――」

と、カッコつけてみたのはいいが、この話には付け足しておかねばならないことがある。僕をして「世界の終わり」だの「自分の背負った業」だのと歯の浮くような台詞を言わしめたこのpriapiqueという単語は、そのとき引いた辞書によると「(男根が)勃起した」という意味の形容詞なのだった。だから渡辺一夫は「あまり『厳峻な』書物ではない」と付け加えていたわけである。この単語がギリシャ神話の豊饒の神プリアポスに由来するとか、ここから派生したpriapisme「持続勃起症」という単語を詩人ステファヌ・マラルメが友人に宛てた若い頃の性的放蕩についての書簡中に用いているとか、そんな衒学をやってみたところで始まらない。これでは辞書で卑猥な単語を見付けてはしゃいでいる思春期の少年と大差ないではないか。まったく、お恥ずかしい限りである。

なお、今回取り上げた「戦時下」にまつわる書物はほんのわずかに過ぎない。その時代を生きた人の数だけ「戦時下」もまた存在するわけだが、そのすべてを網羅することは僕の手に余る。もしこれで興味をもたれた方がおられたら、『火垂るの墓』の作者が有名どころの戦中日記を引きながら自身の戦争体験についても語った野坂昭如『「終戦日記」を読む』(朝日文庫)をブックガイドも兼ねた入口としておすすめしておく。今まさに始まろうとしている、きな臭い「戦前」の時代を生き抜くための“旅の道連れ”になる書物を見付けていただければ幸いである。

吉田 隼人(よしだ・はやと)
吉田 隼人(よしだ・はやと) プロフィール

1989年4月25日、福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)に生まれる。
町立の小中学校、県立福島高校を経て、2012年3月に早稲田大学文化構想学部(表象・メディア論系)卒業。

2014年3月、早稲田大学大学院文学研究科(フランス語フランス文学コース)修士課程を修了。修士論文「ジョルジュ・バタイユにおけるテクストの演劇的=パロディ的位相」。現在は博士後期課程に在学。

中学時代より独学で作歌を始め、2006年に福島県文学賞(青少年・短歌の部/俳句の部)、2007年に全国高校文芸コンクール優秀賞(短歌の部)をそれぞれ受賞。

2008年、大学進学と同時に早稲田短歌会に入会。「早稲田短歌」「率」などに作品や評論を発表。

2012年、「砂糖と亡霊」50首で第58回角川短歌賞候補。

2013年に「忘却のための試論」50首で第59回角川短歌賞を受賞。早稲田短歌会ほかを経て、現在無所属。
「現代詩手帖」2014年1月号から2015年12月号まで短歌時評を連載。「コミュニケーションギャラリー ふげん社」ホームページに2014年11月からエッセイ「書物への旅」を連載。

2015年12月、歌集「忘却のための試論」を書肆侃々房より刊行。2016年、同著で3月に2015年度小野梓記念芸術賞受賞、4月に第60回現代歌人協会賞を受賞。