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第12回 ウィキペディアンと歩く横須賀【神奈川県横須賀】

2019.01.31

『海軍料亭小松物語』

浅田 勁(かなしん出版)

『我が祖父川島忠之助の生涯』

川島 瑞枝(皓星社)

 

9月末の朝9時前、眠い目をこすりながら京急浦賀駅の改札を出ると、7、8人ほどの男女のグループが集まっていた。今日は一日、この人たちと行動を共にするのだ。この中で私が知っている人は一人だけ、主宰者の「のりまき」さんだ。ほかの人たちは顔見知り同士のようで、こちらはややユウウツ。この集まりになじめるだろうか。

ツアーのパンフレット

参加者の一人からカラー印刷のパンフレットを渡される。「Wikipediaツーリズムの試み、のりまきが案内する横須賀。」というタイトルだ。   Wikipedia(ウィキペディア)はご存知の通りネット上のフリー百科事典だが、誰でも執筆できて編集できるところが特徴だ。このウィキ執筆者をウィキペディアンと云うそうだ。昼食のときに、のりまきさんが出席者を紹介してくれたが、それぞれが得意のテーマや分野を持ち、いくつもの項目を執筆していた。要するに、ここではウィキペディアンじゃないのは私一人なのだ。

 

私が今回の集まりに参加したのは、ウィキペディアンという人たちに興味があったからだ。昨年の秋、横浜の南万騎が原駅前で開催した「みなまき一箱古本市」を見に行ったら、そこでのりまきさんに十数年ぶりに再会した。はじめて会ったとき彼はのりまきではなく、「海老名ベテルギウス則雄」という名前で、友人と『畸人研究』というミニコミを発行していた。同誌創刊の動機が「奇人である海老名を研究すること」だったことから判るように、彼はいろんな意味で人並みではなかった。北朝鮮の金剛山に魅せられて、何度となく同地を訪れている。『畸人研究』に載せきれない文章はサイトで発表している。ちなみに、奥さんの「ふとまき」さんによるのりまき観察日記は絶品で、いずれ本にまとめてほしいと思っている。

 

久しぶりに会った海老名さんは、いつの間にかウィキペディアン「のりまき」さんになっていた。鉱山についての項目を執筆するために、ものすごい量の本を買ったと聞き驚いたが、よく考えたら、活動の場がウィキペディアに移っただけで、彼がやっていることは昔から変わっていないのだ。

燈明堂へと導くのりまきさん

この日も、大人数を引率して浦賀駅からバスに乗り、徒歩で燈明堂(江戸時代の和式灯台)まで歩く間、ずっとハイテンションで喋りっぱなしだった。参加者もそういうのりまきさんに慣れているらしい。何を聞いても答えが返ってくるのがすごい。この日はあいにく天気が悪く、途中から雨が降ってくる。久里浜駅近くのペリー上陸記念碑に着くころ、もう一人の知り合いが合流。丸亀から来た中俣保志さんで、私にのりまきさんがウィキペディアンになっていることを教えてくれた人である。話せる人が来たので、ちょっと安心する。

ペリー上陸記念碑

  ペリー上陸記念碑は、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー退役海軍少将が久里浜を訪れたことをきっかけには1901年(明治34)に建てられた。この碑を前に、のりまきさんが語ったエピソードが面白い。太平洋戦争末期に「横須賀市の翼賛壮年団は、開戦の大詔渙発記念日にあたる1944年(昭和19年)12月8日を期してペリー記念碑を粉砕し、靖国神社の参道に撒いて参拝者に踏み付けにしてもらおうと計画した」というのだ(ウィキペディアより。この項目の執筆者ものりまきさんだ)。のりまきさんはその計画のバカバカしさに憤慨し、それをはねのけた横須賀鎮守府の長官を礼賛し、それでも記念碑を撤去せざるを得なかったこと、それが終戦後に再建されたことを語る。さまざまな資料を読み、ウィキの記事を執筆することで、彼の中にすっぽりと歴史が入ってしまったかのようだった。

 

昼食のあとは、電車で横須賀駅に移動し、横須賀海軍施設のあったヴェルニー公園へ。横須賀製鉄所などの建設を指導したフランス人レオンス・ヴェルニーにちなむもの。雨のため、ヴェルニー記念館の見学が主となったが、展示のガラスケースの中に川島瑞枝『我が祖父川島忠之助の生涯』(皓星社)という本を見つけた。川島忠之助は横須賀製鉄所付属の教育機関「黌舎(こうしゃ)」の出身で、フランス語に堪能であり、1878年(明治11)、日本で初めてジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を翻訳している。たまたま私の本を出した版元だったことから、後日同書を手に入れて読んだが、富岡製糸場で通訳として働き、フランスやインドで銀行家として働いたスケールの大きな明治人の伝記だった。

 

そこから歩いて「どぶ板通り」へ。戦前・戦中は海軍、戦後は進駐軍向けの店が並んだエリア。20年ほど前に来たときとはすっかり変わって、しゃれた店ばかりが並んでいる。それでもメイン通りから外れると、かつての猥雑な雰囲気が残っている一角があり、のりまきさんが激賞する立ち食いの焼鳥屋で一本食べたりした。

古本屋

ゆるやかな坂を上がっている途中、〈Books&Café Amis〉という看板を見つけた。こんなところに古本屋があるのか。何気なく外の均一台に目をやると、なんと私の『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)があるではないか。100円なので、自己紹介代わりに誰かに差し上げよう。一行はすでに先に行っているので、急いでレジに向かう。すると、その真横に浅田勁『海軍料亭小松物語』(かなしん出版)を見つけた。〈小松〉って、さっきからしきりにのりまきさんが云っていた店じゃないか! 僥倖を味わう暇もなく、一緒に買って一行を追いかける。

 

同書およびのりまきさんが書いたウィキペディアの「小松 (料亭)」によれば、〈小松〉は1885年(明治18)に開業して以来、多くの海軍関係者に愛された料亭だった。最初は田戸海岸沿いにあったが、のちに米が浜に移転した。「旧海軍士官で小松を知らない者はいない。彼らは小松を“松”の字にちなんで“パイン”と呼び親しみ、小松に出入りすることを誇りとさえ思った。艦隊が入れば真っ先に小松に行き、飲み、唄い、かつ騒いだ」という元海軍将校の言葉が『海軍料亭小松物語』に引用されている。初代の女将・山本コマツと養女で二代目の山本直枝をめぐるエピソードも多い。〈小松〉は戦後も海上自衛隊御用達の店として続いていたが、2016年5月に火災で全焼した。「ツアーの最後にぜひ小松で懇親会をやりたかったのに」とのりまきさんがなげく気持ちも判る気がする。

 

ちなみに、『海軍料亭小松物語』は1994年刊。それまで取材を断ってきた二代目の山本直枝に何度も話を聞き、〈小松〉の歴史をまとめている点では貴重だが、この店に出入りした山本五十六、井上成美、米内光政といった軍人・政治家についての記述に重きを置きすぎる気がした。新聞連載がもとになったためか、重複する部分もけっこうある。それに比べると、のりまきさん執筆のウィキの項目は、あくまでも〈小松〉という料亭が主役である。同じエピソードを取り上げていても、ウィキの記述のほうが生き生きとしていると感じたのは、私の贔屓目だろうか。

 

ツアーはまだまだ終わらない。のりまきさんが横須賀に住んでいたころから通っているというカフェで休憩し、横須賀市立中央図書館へ。二階の郷土資料室は充実していた。山をぐるっと回って横須賀駅近くまで戻り、最後に〈一福〉の座敷で打ち上げ。居酒屋というよりも定食屋で、和洋中なんでもある。今日のツアーの参加者は、会社員や公務員、図書館員として働きながら、プライベートな時間を割いて、テーマを決め、調べ物をし、執筆している。頼まれもしないのになぜそんなことをやっているのかと思っていたが、彼らの話を聞いていると、じつに楽しそうだ。それを見ていると、一箱古本市の店主さんと似ているなと感じた。やっていることは違うけど、どちらも自己表現であり、そのことで充実感を得るのだろう。

 

これまで表面しか知らなかった横須賀のディープな面を知るとともに、はじめてウィキペディアンたちとはじめて話せて面白かった。世の中にはまだまだ未知の場所、未知の人々がいるのだ。

 

(文・写真 南陀楼綾繁)

南陀楼綾繁
南陀楼綾繁 プロフィール

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。

早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。

出版、古本、ミニコミ、図書館など本に関することならなんでも追いかける。

2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。各地で開催される多くのブックイベントにも関わる。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、石巻市で本のコミュニティ・スペース「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。本と町と人をつなぐ雑誌『ヒトハコ』(書肆ヒトハコ)編集発行人。著書に『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)、『ほんほん本の旅あるき』(産業編集センター)、『町を歩いて本のなかへ』(原書房)などがある