第9章 道 Beatrix Fife “Bix” テープレコーダー (日本語) 2019.08.18 あらゆる子どもたちがたいてい母親を愛するように、私もお母さんのことが大好きだった。私が新しい人々と出会い、友人をつくることができたのも、おそらくはお母さんのおかげだ。お母さんは、オープンな性格で社交的だった。でもその一方で、とても厳格なところもあり、私たちと話すときはノルウェー語以外の言葉は絶対に使わない。学校にお母さんが迎えにきてくれるときには、私たちはその日にあったことをノルウェー語で話さねばならなかった。さもなければ、話を聞いてくれないのだ。一つの言語の世界から別の言語の世界へと瞬時に「切り替える」のは難しいことだ。兄や弟や妹と私で一緒に遊んでいるとき(お母さんとお父さんが一緒でないとき)には、私たちはフランス語やイタリア語、ときに英語やノルウェー語で話した。どの言葉かは、そのときにしている遊び次第だ。お母さんとお父さんは最初から「家族の」言語は一つにすると決めていて、それがノルウェー語だった。でも学校での生活や友人たち、そして日常の私たちの周囲のすべてのことは、フランス語で成り立っていた。 家にお客さんがあるときは、フランス語を話す相手ならフランス語、英語なら英語、イタリア語ならイタリア語と、みんなが相手の言語を使うことになる。ただ、そう決まっていたのだ。お母さんとお父さんがまだ小さかったときも同じで、ほかにも大勢そういう人たちがいたことだろう。 お母さんは、12歳まで、ノルウェーの南東の海岸沿いにあるトンスベルグという小さな町で育った。それからお母さんのお母さんと弟と一緒に英国のロンドンに引っ越した。当時その町で仕事をしていた父親と家族みんなで暮らすためだ。 日曜日には、お母さんはよく私たちのためにノルウェーの「グルート」(オートミールのお粥)をつくってくれた。幸いにも、グルートは毎週ではなかったけれど、お母さんのノルウェーのワッフルや、英国のスコーンやマフィン、ケーキ、そしてクリスマス・プディングはどれもとても美味しい。イタリアのパスタも素晴らしくて、これはとりわけお父さんを喜ばせた。お父さんには、ローマの本場の味の美味しいトマトソースとアルデンテの麺のゆで方が絶対に必要だったのだ。フランス料理やサラダもあって、市場で買った新鮮な野菜や果物、キッシュやヨーグルト、それにタルトもある。家では毎日、お母さんがつくってくれた色々な国の色々な料理の皿が、華やかな花のように並んでいた。 私はお母さんと一緒に料理はしなかった。音楽や学校の宿題、お人形遊びや友人たち、そしてテープレコーダーとともに過ごすのに、あまりに忙しかったからだ(お母さんからお料理を習ったのは、妹だった)。 ノルウェーの森の中から英国の大きな都市に引っ越した経験のあるお母さんは、子どもにとって、言語の異なる別の国へ引っ越すことがどういう意味をもつかをよく知っていたのだろう。そこで、私たちのためにイタリアとノルウェーの週刊漫画雑誌を定期購読してくれた。イタリア語やノルウェー語と情緒的にも、また物理的にも接し続けていられるように(そしておそらくは、もっと学べるように)という心遣いだ。私たちはみんな、こうした雑誌が大好きだった。毎週、雑誌が届くと、みんなでシェアして読みふけったものだ。イタリアの続き漫画を読んでいると、イタリアで過ごした過去の生活に戻った気がして、そうした絵の数々から、ローマで起こった本当に多くのことが思い出された。一方、ノルウェーの漫画は、私たちの将来の生活を垣間見せてくれた。お母さんから、いつかは私たちがノルウェーに住むことになると言われていたからだ。 私たちはまだノルウェーには一度も住んでおらず、ただ数回、いくつかの家族の家を訪れたことがあるだけだった。そのノルウェーについて、もっとよく知ることができるようにと、その漫画雑誌の掲示板に私が告知をできるようにお母さんが手伝ってくれた。同じ年齢のノルウェー人で、私のペンフレンドになってくれる子を探していると、書き送ったのだ。それから何週間にもわたり、ノルウェー中、それこそ北部から西部、南部まで、あらゆる地域の子どもたちから、毎日、何百通という手紙が届いた。 お母さんからは、郵便屋さんにプレゼントをあげなくちゃいけないわ、と言われた。何百通もの手紙を自転車で運ぶのは、ひどく重たい作業だからだ。それから送られてきた手紙の大半に心のこもった返事を出し、そのなかからほんの数人だけを選ぶように、とも言われた。この文通を通じて、私はノルウェー語の読み書きを学んだ(話すことを学んだのは、お母さんからだ)。たくさんの写真を送ってもらった。ノルウェーの子どもたちや、町や家、子どもたちがスペインやカナリア諸島で過ごした休暇の様子など。ノルウェーが冬にはとても暗いこともわかったし、ノルウェーには沢山の方言があって、主要な公用語が二つあることも知った。子どもたちは学校でカラー・ペンを使うことができ(パリの私の学校では考えられないことだ)、無条件にほとんど誰もがアイススケートとスキーを滑ることができて、そして学校は午後のとても早い時間に魔法のように終わってしまうのだ! 私の毎日の生活とは遠く離れて存在する、それはもう一つのパラレル・ワールドだった。 テープレコーダーがあって幸せだった。クラスでフランス語の詩の朗読がうまくできるように自分の声を録音し、難しい単語を覚え、音楽や鳥の歌声を何度も聴いたものだ。ノルウェー語を読んだり、話したり、書いたりするのはお母さんから習い、またノルウェーの子たちとの文通も続けた。また音楽も、ミュージック・スクールで学び、自分の部屋で練習を積んだ。音楽は、私が一人ですごす時間を意味した。いくつもの言葉を話すために払っていた一切の努力から、かけ離れた時間である。言語の一つを選ぶ必要のない、自分の感情だけをすくいあげることのできる方法だった。あとになってだが、私たちは一つの言語を話しているときも、私たちの知っているすべての言語を常に使っているのだと知ることになる。抱えているものが重いほど、時間も努力もよけいに必要になるのだ。 お父さんからも、英語とイタリア語の歌を学んでおり、その歌をテープレコーダーに吹き込んだ。 こうした生活のすべてに満足していた私だけれど、小さな暗雲がたちこめ始めていた……。お母さんは(それに私の妹も)パリの天候が好きになれなかった。湿気にまいっていたし、よく風邪をひいて、咳をしていた。お母さんは、私たち4人の世話をするのにとても忙しい。子どもたちはフランスの学校に通っており、それぞれの友人たちがますます家に遊びにくるようになっている。それに、お母さん自身もさほどよくは知らないフランスの社会で暮らす私たちの、生活上の歓びや問題の数々に耳を傾けるのにも忙しかったことだろう。お母さんは、私たちはすぐに「私たちの」母国ノルウェーに戻るのだと言っていた。 もうじき9歳になる私は、お母さんのこの言葉を聞いていたけれど、それについて深く考えたことはない。ノルウェーは結局のところ、お母さんが子ども時代を過ごした国であり、それはある意味で私の国でもあったからだ。 フランス語を学べば学ぶほど、私の話し方はますますほかの子たちの話し方と似てきたし、また私自身がますますここパリの新しい家に、そして私の新しい友人たちの間に、しっかりと根をおろし始めたようだった。テープレコーダーは鏡のようだ。私の家での生活と家の外での生活の架け橋だったのだ。 たとえイタリアが依然として私の心の中にあり、「私の」国だったとしても、私は同時にフランスをますます自分の故郷のように感じていた。もちろん私は、ローマで私たちの世話をしてくれたイタリア人の乳母のピナにも、また友人たちにも会えないことを、とても寂しく思っていた。笑い声、叫び声、洗濯室の音や匂い、乾いた土、古い家々と廃墟、そして陽光……。でも、いつイタリアに戻るのかと、私が両親に訊ねる回数はどんどん減っていく。私が学んでいるいくつもの言語がどうにか私の中に留まって発達していき、私の人生の様々な部分へとつながる橋となっていったのだった。 兄弟と妹と犬と一緒に 初めて雪を見たときに私がどんなふうに感じていたようだったか、お父さんが書き残してくれたメモ ローマの近くの海岸で遊ぶ兄と私