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第9回 筑豊文庫への旅 【宗像市・直方市】

南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)

2018.04.12

『上野英信展 闇の声をきざむ』

福岡市文学館   2017

古本アクス

小倉駅から鹿児島本線に乗って、西へ。教育大前駅で降りる。唐津街道の宿場町・赤間宿のある町だ。その街道沿いにめざす古本屋〈古本アクス〉はあった。

中に入ると、店主の上野朱(あかし)さんが待っていてくれた。この日は、前回触れた若松の山福康政展が最終日で、朱さんもその撤収の手伝いに行くはずだったが、山福朱実さんが「こういう人が行くから」と連絡してくれたので、店を開けて待っていてくれたのだ。

朱さんは、記録文学者・上野英信と妻・晴子の間の一人だけの子どもだ。

上野英信は関東大震災が発生した1923年(大正12)に、現在の山口市阿知須で生まれた。少年時代から優秀で、18歳で満州国の建国大学に入学。学徒召集で広島の部隊にいた際、原爆投下に遭う。その後、長く原爆症に悩まされることになる。「私はいまなお一九四五年の八月六日から十五日までの十日間を、ゆきつもどりつ、さまよいつづけているばかりだ」と上野は書いている。終戦後、京都大学に入るが中退。婚約を破棄し、父に勘当され、体一つで福岡へ行き、炭鉱労働者として坑内に入った。

いくつかの炭鉱を移りながら、労働者のための雑誌を発行する。ヤマの仲間たちの「面白か話ば、頼っちょるばい」という言葉に励まされ、千田梅二の版画と上野の文章による「えばなし」を制作した。その後、晴子と結婚し、中小炭鉱の記録に取り組む。1960年に岩波新書で『追われゆく坑夫たち』が刊行された。そこから1987年に64歳で亡くなるまで、筑豊の炭鉱の実情と、そこから派生するテーマを追い続けた。

私は大学の頃、上野の『地の底の笑い話』や『天皇陛下萬歳』を読み、まったく知らない世界に驚き、感銘を受けた。その後も少しずつ上野の著作を読んできたが、まだ半分は未読だ。

しかし、山福康政が最も尊敬した人が上野英信であり、山福が営む裏山書房から『追悼 上野英信』が刊行されたこと。上野と山福は家族ぐるみの交流があり、上野晴子の『キジバトの記』、朱さんの『父を焼く 上野英信と筑豊』の装丁を、娘の山福朱実さんが手掛けていることを知り、上野英信への興味が再燃した。

その頃、はじめて直方に行った。明治期に、近隣の炭鉱で産出された石炭を北九州に運搬する基地として栄えた町だ。1910年(明治43)に炭鉱経営者で組織された筑豊石炭鉱業組合直方会議所は、石炭記念館として公開されている。両親とともに各地を流れ歩いていた少女時代の林芙美子も、この町に滞在した時期がある。炭鉱が消えてしまってからは、静かになってしまった町だが、また訪れたいと思わせる魅力があった。

その後、「筑豊文庫が直方市に寄贈」というニュースを見て、驚いた。上野英信は1964年、鞍手町の炭鉱の廃屋になった長屋に一家で移り、筑豊文庫を開設した。

 

「父はそこを公民館兼炭坑資料館兼剣道場兼図書館兼……、今なら多目的ホールとでも呼べばいいのか、とにかく周辺住民のために開放し、自らもそこを自宅兼仕事場として、一九八七年に没するまでの二十三年間を過ごしたのだった」(『父を焼く』岩波書店)

 

筑豊文庫には上野の没後も、晴子や朱さん一家が住んでいたが、老朽化により解体された。その後、上野の友人に預けられていった資料が、直方市に寄贈されたのだ。

 

小倉の〈緑々〉でのトークの翌日、直方でトークをすることになっていた。その途中に、朱さんに会うことができたのは本当に良かった。店内を一巡し、上野英信・趙根在編『写真万葉録・筑豊』全10巻のうちのバラ2冊や、『こみち通信』『天籟通信』の上野英信追悼号(後者の表紙は山福康政)などを見つける。

朱さんに『上野英信展』の図録はありませんか? と訊いてみると、手元にあった最後の一冊を出してくれた。前日、若松の火野葦平資料館で、福岡市文学館で昨年開催された『上野英信展 闇の声をきざむ』の図録を見て、そんな展示があったなら見たかったと悔やんでいたところだったので、手に入れられて嬉しかった。

赤間バスセンター

さて、そろそろ直方に向かわなければならない。駅前の赤間バスセンターから直方行きのバスが出ていると、朱さんが教えてくれる。その前に、教育大の近くにある〈すかぶら堂〉に連れていってもらう。教育書が中心の古書店で、2階は古い本で埋まっていた。朱さんに見送られて出発したバスは山のほうへと入っていく。この辺にはかつて中小の炭鉱があったはずだが、車窓からはその名残りは見つからない。いわゆる「ボタ山」も草木に覆われてしまったのか。途中、「六反田」というバス停を通過する。筑豊文庫はこの辺りにあったはずだ。跡地には朱さんが家を建てて住んでいる。

直方に着き、ホテルに荷物を置いてから、直方駅に向かう。直方機関区があり、筑豊の各線に通じていた。ここの跨線橋からの線路の眺めは圧巻だ。駅の反対側に、直方市立図書館がある。休館中のところ、無理を云って中に入れてもらう。現在、筑豊文庫はここに保管されているのだ。

書籍や雑誌は棚に並べられているが、炭鉱に関するガリ版や手書きの記録は箱に入れられている。石炭のにおいが染みついたようにすすけているが、ほかのどこにもない資料がここにある。まだ整理中で、全貌が判るまでには時間がかかるというが、少しずつ公開していってほしいと思う。

須崎商店街

この日は、須崎商店街の中にある、元旅館という古民家でトークをした。古い座敷で、火鉢の前に座って話し、終わってから地元の人たちと酒を飲んだ。毎日のように、各地から人がやってきて酒を飲み、泊ったという筑豊文庫も、こんな感じだっただろうか?

上野英信は誰でも歓迎し、炭鉱を案内した。しかし、彼らをもてなす妻の晴子は大変だった。彼女は夫を「偉大なるエゴイスト」と呼んだが、その根底には強い信頼があった。

古民家でのトークのようす

旅の終わりに実家に帰り、『上野英信展』の図録を読む。図版もテキストも豊富であり、上野英信を知るための基本資料となっている。

たとえば、炭鉱に生きた人たちの営みを多くの写真で記録した『写真万葉録・筑豊』(葦書房)の編集を助けた、写真家の岡友幸さんへのインタビュー。上野は「この仕事は他人には任せられないという強いこだわりがあった」。完結までに3年を費やし、その翌年には亡くなった。

このシリーズを待ち望んで買ったのは、ふだん書店に立ち寄ることもない人たちだったと、岡さんは云う。

 

「それが『万葉録』に収められているものが、自分たちの思いを代弁してくれているという認識があったからではないでしょうか。庶民にとっては昔から小難しい文章とか分厚い本というのは自分たちを苦しめる象徴としてあったわけですが、この本は自分たちの味方であると思えた。写真を見ればそれがすぐにわかりますから」

 

本は誰のためのものなのかを、深く考えさせられる言葉だ。

「『筑豊文庫』を支え続け受け継ぐ人々」の項では、山福康政らに並んで、柏木博の名前があった。赤間で行った〈すかぶら堂〉の創業者だ。坑夫として働いたのち、赤間駅前で開店。その後、いまの場所に移る。「すかぶら」とは働かずにぶらぶらしているという意味の炭鉱言葉だ。2005年に亡くなったが、店は身内が継いでいる。

柏木は「黙々と筑豊文庫へ炭鉱関連資料を運び、一切の謝礼を拒んだ。『いいんです、はい』が口癖」だった。朱さんはこのすかぶら堂で働き、その後、独立している。

「私は柏木さんに出会って、人は内なる強さを、やさしさや静けさとして表現することもできる、と知りました」と記す。筑豊文庫の周りには、こんな人たちがいたのだ。

 

筑豊文庫が公開された頃、また直方に行きたい。朱さんの〈アクス〉や〈すかぶら堂〉に寄ってから、赤間からバスに乗ろう。そして、六反田で途中下車して、筑豊文庫の跡を歩いでみたい。

 

(文・写真 南陀楼綾繁)

南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ) プロフィール

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。

早稲田大学第一文学部卒業。明治大学大学院修士課程修了。

出版、古本、ミニコミ、図書館など本に関することならなんでも追いかける。

2005年から谷中・根津・千駄木で活動している「不忍ブックストリート」の代表。各地で開催される多くのブックイベントにも関わる。「一箱本送り隊」呼びかけ人として、石巻市で本のコミュニティ・スペース「石巻まちの本棚」の運営にも携わる。本と町と人をつなぐ雑誌『ヒトハコ』(書肆ヒトハコ)編集発行人。著書に『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書)、『ほんほん本の旅あるき』(産業編集センター)、『町を歩いて本のなかへ』(原書房)などがある